第41話 海でナンパされてみた


「はぁぁ。クーラーが涼しい……」

「もぉぉ。お兄ちゃん、じゃまっ」


 冷えた床でごろごろしていたら、彩芽にモップではたかれてしまった。

 夏休みも終盤に入った昼下がり。明日夏はごろごろと怠惰に過ごしていた。

 一応明日夏の名誉のために言っておくが、家の中の掃除は当番制なので、明日夏だってちゃんと掃除をするときはしているし、料理だって作っている。

 けどそれ以外の時間はこうやって過ごしても問題ないはずだ。


「ふぁぁ。主婦ってこんな感じなのかなぁ」

「そんなこと言っていると、本当の主婦の人に怒られるわよ!」

 彩芽がぷんぷんと言った。


「そもそもせっかくの夏休みなのに。家でごろごろしてばっかりで。女の子として最初で最後の夏休みかもしれないのに、もったいなくないの?」

「うっ……それは確かにそうかも」


 明日夏は軽く身を起こした。

 確かに彩芽の言う通りだ。これまでの夏休みとは違って、今は女の子なのだ。そのせいで一樹以外の学校の友達と遊びに行けなくなってしまったけれど、女子なら女子としての楽しみ方が別にはあるはず。

 夏と言ったらひと夏の経験。ひと夏の経験と言ったら……


「よしっ。ナンパされてみよう!」

「……はぁ?」

「ナンパって言ったら、やっぱり海だよねぇ。でも一人で行くのはどうかだし……あ、そうだ。前に一樹が言っていた海の家のバイト、あれに行けば、海にも行けてお金も稼げて、一石二鳥だよねっ」

「――なんでもいいけど、早くそこをどいてよね」

 そんな明日夏を見下ろしながら、彩芽が白い目で言い放った。



  ☆☆☆



 というわけで、海である。

 浜辺に建てられた簡易的な海の家の数々。

 その掘っ立て小屋の一つから、明日夏の生き生きとした声が響いた。


「はい。焼きそば3つです。ありがとうございましたっ」

 明日夏は営業スマイルを浮かべ、パック入りの焼きそばをお客に手渡した。

 女性歴も半月を越え、すっかり板に付いてきていた。学校では常に男どもを手玉に取ってきたのだ。その自信が明日夏の身体にまとっていた。

 男のときのままだったら、ここまでフレンドリーな接客はできなかっただろう。

 人の状況によっては調理の方にも入れるし、明日夏にとっては働きやすい環境だった。それゆえに、周りの従業員の人も明日夏を受け入れて優しくしてくれるので、気持ちよく働くこととができていた。

 ――まぁさすがに、真夏の太陽の下で食事を提供するのは、暑いけど。

 それともう一つ、気になることと言えば……


「……で、二人がここにいるの?」

 明日夏は白い目で、テーブルの一角に目を向けた。

 そこには見慣れた野郎どもが二人が席に着いていた。英治と海斗だった。


「それは、このような面白そうなイベント、見逃すわけにはいきませんから」

「そうそう。せっかくなんだし、ちょいと見に行ってみようかなってだけさ」

「――ていうか、明らかに別目的で来ていて、偶然ぼくに会っただけだよね?」


 明日夏は、はぁっとため息をついた。

 ここにバイトに来ることはみんなには伏せてある。特に一樹に対してはあえて嘘情報を流したくらいだ。いくら英治たちでも知っているわけがない。


 夏休みの海水浴場には、子供連れの母親の姿が多い。大方二人の場合それが目当てなのだろう。一人で海水浴場に来たら目立つけど、こうやって男三人で来ていると、ナンパ目的と見えなくもないし。――もっとも海斗が好みの女の子をナンパしたら警察沙汰だけど。


 一応ナンパ目当てに見えるくらいは、彼らの容姿は悪くはない。

 男のときは見慣れた野郎の裸だが、女になってみてみると、大きく感じる。男の胸板にあこがれる女性の心境を少しだけ理解した気分だ。

 だからといって、明日夏が男性陣に惚れるかというわけではないが。


「ていうか、そのエプロンの下って、いつものスク水じゃないんだな」

 海斗が目ざとくチェックしてきた。

「あ、これ? うん。レンタル水着だよ。ぼくも最初はいつもの水着できたんだけど、さすがに目立ちすぎるからって、オーナーに言われちゃって」

 明日夏はくるりとその場で回った。エプロンが翻り、背中があらわになる。フリル付きのありふれた水着だ。最初はブラとパンツみたいで抵抗があったけど、周りの女の子たちがみんなこれなので意外と平気だった。集団心理というやつである。トイレも楽だし。


「秋津さーん。こっちお願いできるー?」

「あ、はいっ。それじゃね。くれぐれも犯罪だけは犯さないでよ」

 明日夏はくぎを刺すと、エプロンをばたつかせて、奥のテーブルに向かっていった。


 時給はいいし、今日一日だけなので、と明日夏にしては珍しくまじめに走り回った。そして嵐のようなお昼時も過ぎ去って、ようやく一段落したころには、二人の姿はなくなっていた。

 テーブルをずっと占領していては迷惑だから、と考えるような輩ではないが、逆に明日夏を気遣ってバイトが終わるまで一緒に残っているような輩でもない。

 大方、お目当ての女の子を探しに海辺を歩き回っているのだろう。

 とはいえ、せっかく海で会えたのだから、一緒に遊べたら楽しかったのになぁという気持ちもあったので、ほったらかしにされたみたいで、ちょっとばかり面白くなかった。


 だからだろうか。

「ねぇねぇ、明日夏ちゃん。バイト終わった後って、暇? 予定なかったら帰る前に、俺と少し一緒に泳がない?」

「ん、どうしようかなぁ。ま、いっか」

 そんな明日夏に向け、同じバイト仲間の男性がかけてきた言葉にうなずく明日夏であった。



 明日夏を誘ったのは、小平という同じ高校生の男子だった。タイプ的に一樹と海斗を足して二で割った感じの性格で、話しやすかった。

 最初のうちは、もう子供じゃないし海ではしゃぐような年齢でもないし……なんて思っていたけれど、いつの間にか純粋に楽しんでいた。

 いわゆる童心に戻ったというやつである。

 男どもの扱いにも、学校でのやり取りでだいぶ慣れていたし。

 だが男子校の男どもは、あくまで明日夏を男の娘として扱っており、普通に女の子として接している小平とは根本的に違っていることに、明日夏はまだ気づいていなかった。


「なぁ、ちょっと、岩場まで行ってみない?」

「うん。いいよ」

 明日夏はあっさりうなずいて、小平の後に付いていく。

 砂浜の方と違い、そろそろ夕暮れということも相まって、こちらには人の姿がほとんどない。

 この辺りは釣りに向いていそうだなぁ、とのんきに思いつつ足元に気を付けて歩いていた明日夏は、不意に海に来たもう一つの目的を思い出した。


「あっ、忘れてた!」

「お、おっ、いきなり、なに?」

 小平が驚いた様子で聞き返してくる。

 明日夏は、あははと笑いつつも、少し小平を恨みがましく見つめて言った。

「そういえば海に来たのって、バイトだけじゃなくて、ひと夏の体験のためにナンパされてみるって目的があったんだよ。うー、遊んでいてすっかり忘れちゃったよー」


 結果的に小平と一緒に行動していたせいか、声をかけられることはなかった。

 だがそんな明日夏の反応に、小平はきょとんとしてから、にへらと笑って告げた。


「てか、明日夏ちゃん。俺のこと、どう見てたわけ? 俺としては、めっちゃナンパのつもりだったんだけど」

「……へっ?」

「ま、ただのナンパだけじゃなくて、その先のことが目的だけどな」


 そう言って、小平が笑う。その笑みは、海辺ではしゃいでいたときや、海の家でのバイト中に客に見せていたものとは違う、明らかに下心がこもった笑みだった。

 気づけば周りに人の姿はなくなっていた。

 人気の無い海水浴場の外れに明日夏を連れ込んだことで余裕が出たのか、小平が包み隠すことをせず、明日夏の肢体を舐めるように見つめてくる。

 ここまでくれば、さすがの明日夏も彼の意図に気づく。


「……えーと。別にぼく、そこまでするつもりは全くないんだけど」

 小平も明日夏が勘づいたことに気づいた様子だったが、余裕が出たのか包み隠さず言い放った。

「あはは。無防備過ぎ。男が女の子をナンパする目的なんてひとつしかないし。そもそも明日夏ちゃんがその気がなくても、こっちはやる気だし?」


 そう言って、小平が一歩近づいてくる。

 明日夏はゆっくりと警戒しながら後ずさり――にこりと笑みを浮かべた。


「うーん。やっぱ、遠慮しようかな。だってぼく、いくら何でも四人も相手にできないし?」

「……は?」

 ぽかんとした顔を浮かべる小平の前に、岩場には明らかに不釣り合いなビーチボールがぽーんと、転がってきた。

「あ、すいません。ボール飛んじゃいましたー」

 どこか白々しい声を上げてボールを拾いに来たのは、何故かここにいた一樹だった。

「……はぁ。まぁナンパとして声をかけられる相手がいるのは少し羨ましいですが」

「まったく、そーだよなぁ」

 半ば悟り切った様子の、海斗や英治も一緒だった。

 現れたのが明日夏の知り合いっぽく、それが三人もいるという状況に、小平も悟ったようだ。


「あ、なーんだ。友達と来てたんだ。あ、さっきの? やだなぁ。冗談だよ。あははは……それじゃ」

 小平はわざとらしくそう笑うと、さささと逃げるように明日夏の前から去っていった。

 それを見て明日夏はほっと息を吐いた。さすがにちょっとは怖かった。

 にじり寄られたとき、男と女の体格差を思い知らされ、改めて今の自分が女であるということに気づいたし。

「ありがとう。助かったよ」

「はっはっは。別にかまわないって。明日夏の水着姿を見られて満足さ」

 一樹が笑う。

「さて帰りますか」

「え、もうちょっと遊んでいかね? せっかくビーチボール買ったのに」

「うん。そうだね。もうちょっと遊んでから帰ろうか」

 一樹の言葉に、珍しく明日夏がうなずいた。

 小平に感じてしまった、男の悪い印象を上書きしたかったから、という思いが心の奥底にあったのかもしれない。


「で、ナンパはどうだった?」

 一樹が笑って聞いてきた。

 そう聞いてくるあたり、この場所や明日夏の目的は、彩芽あたりから漏れたのだろう。


「もうこりごり」

 明日夏は笑って答えた。

 残りの夏休みは、家で籠城すると固く誓う明日夏であった。


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