第30話 一樹が泊りにやってくる


「はい。ご飯できたわよー」

「はーい」

 茜の合図に、明日夏は立ち上がってキッチンからお皿を持ってリビングに向かう。彩芽もコップを手に取り、三人分の飲み物の準備をする。

 夕食は基本的に、茜が五時の定時で帰社して、家で作ってくれている。

 そんないつもと変わらない秋津家の夕食風景の中、茜が何気なく言った。


「あ、そうそう。お姉ちゃんね、明日と明後日、大阪に出張なのよー。向こうでおっきな展示会があって、その準備で行かなくちゃいけないの」

「へぇ。大変だねぇ」

「まぁお手伝いだけだけど、でも泊りだから、明日はお姉ちゃん、帰って来れないのよ」

「んん……別に大丈夫だよ。彩芽と二人だけでも。ねぇ?」

 明日夏の問いかけに、みそ汁を飲んでいた彩芽もお椀を口につけたままこくりとうなずく。

 茜が社会人だということもあって、こういうことは今まで何度もあり、彩芽も明日夏も、それほど気にはしていない様子だ。


「でも今は明日夏ちゃんも女の子でしょう~。女の子二人だけだといろいろ物騒だと思って」

「うーん。そうかなぁ」

「だけど安心して! ちゃーんと、一樹くんにお願いしてきたからっ」

「はっ……? 何を」

 いきなり一樹の名前が出て来て、明日夏は目を白黒させた。


「二人だけじゃ不安でしょ? だから一樹くんに一日だけお泊りしてもらえるように、って」

「普通は男を招き入れるほうを心配するでしょっ」

 明日夏は立ち上がって突っ込みを入れた。

 そんなとき、タイミングよく玄関の呼び鈴が鳴った。

 最後に帰ってきた茜がしっかり鍵を閉めていなかったようで、勝手に入ってきたのは、大きな荷物を抱えて満面の笑みを浮かべた、一樹だった。

「よぉ。というわけでさっそくお泊りに来たぜぃっ」

「――って、一日早いわぁっっ!!」

 明日夏は飛び蹴りをかます勢いで、一樹を家の外へと蹴り出した。



  ☆☆☆



 そんなことがあったのが前日。

 そして今日。学校帰りの明日夏の横には、すでに大きな荷物を抱えた一樹の姿があった。

 あの後、明日夏は当然反対をしたのだけれど、彩芽の「んー。別にいいんじゃない?」の一言で勝負は決してしまった。三人暮らしなので、多数決は絶対なのだ。

「……はぁ。ただいまー」

「お帰り、お兄ちゃん」

「お邪魔しまーす」

「あ、入間さんも、いらっしゃい」

「彩芽、ちゃんと下着はしまってるよね? 部屋干ししてないよねっ?」

「はいはい。大丈夫だから」

「ぼく、着替えてくるから」

「おぅ」


 明日夏は自室へと戻って、ぱたりと扉を閉め、しっかりと鍵をかけた。普段は鍵どころか、扉も開きっぱなしだけど。

 部屋は女の子になってからも、何も変わっていない。ただ、クローゼットの中身がすっかり入れ替わったくらいだ。

 制服を脱いで着替える。ごく平凡な着やすいTシャツに特に何の特徴もないゴムのミニスカートだ。最近、ヘビーローテ―している部屋着である。相手が和佳だったらともかく、一樹だったら気を遣う必要もないだろう。


「んー。お待たせ」

 明日夏がリビングに顔を見せる。

 彩芽と一樹はさっそくリビングのテレビで、ゲームの準備をしていた。何だかんだで、近所のお兄ちゃんが遊びに来て少しテンションが上がっている的な雰囲気の彩芽がちょっと珍しい。

「あれ、お兄ちゃん、その恰好なんだ。まぁ別にいいけど」

「ん、これ? 何か問題あった?」

 ぱふんとソファーに座りながら、明日夏が自分の格好を見て疑問符を口にした。女の先輩として、彩芽には色々ダメだしされてきたけれど、この服装はどうだったっけ。

「んー。まぁお兄ちゃんが気にしないのならいいけど、その服でゴロゴロしているときって、いつもパンツが見え放題なんだけど」

「――って、良くないよっ。着替えてくる!」

「そうだ! それを先に言っちゃだめじゃないかっ!」

 一樹も抗議の声を上げた。

「……あー。お兄ちゃんが入間さんを警戒していた理由が、何となく分かった気がする」

 彩芽もようやく、一樹へと白い目を向けるようになった。



 というわけで、明日夏はズボン姿に着替えて戻ってきた。長いパンツなので今の時期だとちょった暑い。最近は学校でも家でもスカートだったので、居心地が悪いけれどパンツには代えられない。今度ショートパンツも買ってこようと決心する明日夏だった。

 さて、三人でゲームしているうちに、あっという間に時間は過ぎていく。

 明日夏がよいしょと立ち上がった。

「んー。そろそろ夕食の準備をしないと。ねぇ、一樹。晩御飯は麻婆豆腐でいい?」

「えっ、別に構わないが……明日夏が作るのか?」

「うん。いちおうお客さんの一樹に作らせるわけにはいかないし。簡単だよ。煮物と違ってすぐにできるから」

「そうか。幼なじみの女の子の手料理ってやつだな。調理実習のときも食べたが、家で食べるのはまた雰囲気が違って、いいなっ」

「別に女だから料理しているってわけじゃないけどね」


 明日夏は事も無げに言った。両親が海外赴任になってから一年ちょい。茜が作れないときは明日夏や彩芽が交代で料理を作っていたので、二人ともたいていの物は作れる。

 というわけで料理の準備に取り掛かる。量は茜の代わりに一樹ということで、少し多めにした方がいいかな……とか、豆板醤も少し多めにして辛くしてみようかな、などと考えつつ、いつものように料理をしていく。リビングからの一樹の視線がちょっと気になって動きづらいけど。

 それでも盛り付けを含めて、ぴったり午後七時に料理を完成させた。

 ご飯に麻婆豆腐、中華風卵スープ、冷凍の焼売、そして市販のおしんこ。最後だけ和食だけれど、別にかまわないだろう。


 三人で「いただきます」をしてから、食事に入る。

 明日夏はちらりと一樹の口元を見ていた。何だかんだで、お客である一樹の評価は気になる。

「んんっ。おっ、すげぇ。普通に美味いっ。いや、これ、学食のより美味いんじゃないか」

「えへへ。どうも。この間学食でバイトして気づいたんだけど、学食って意外と手間を省くためにけっこう○○の素、みたいなやつで味を付けているんだよねー。それはそれでいいんだけど、豆板醤や甜面醤、花椒やオイスターソースなど、しっかりと分量を量って入れると、やっぱり味に深みが出て、美味しく感じられるんだよね」

「お兄ちゃんの料理は妙にこだわっていろいろなスパイスを入れるから美味しいんだけど。それを使い切るために、似たような料理が続くのがちょっと気になるんだけど。あれ、一樹さん、どうしたの?」

 彩芽の問いかけに明日夏も気づいて、一樹の顔を見る。彼の顔はいつもと違って珍しく、真剣なまなざしをして、何か考え込んでいる様子だった。

 もしかして味付けが良くなかったのだろうか……

「……いや。ちょっと考えてしまってな」

「何を?」

「調理実習のときにも話題に上がっていたが、あの定番の不味くて食べられない、っていうパターンがなかったのは、それはそれで寂しいかな――と」

「かなりどうでもいい!」



 食事を終える。片付けや皿洗いは彩芽が担当し、その間に明日夏はお風呂の準備をする。

「ん、もう風呂なのか?」

「うん。うちはいつも食事の後すぐ入るかなぁ」

 そのあたりは、家々によるものだろう。和佳の家に泊まったときは、寝る直前だったし。

「お風呂湧いたら、一樹から入っていいから」

「――いや、俺は最後でいい。先に明日夏が入って来いよ」

「えーっ。いくらぼくでも、お客さんより先に入れないよ」

「そこをなんとか――!」

「……は? 何その反応。ってまさか――っ」

 一樹の意図を理解して、明日夏は思いっきり身を引いた。

 その反応で明日夏も理解したことに、一樹も気づいたのか、ストレートに言ってきた。

「いいか? 美少女の残り湯は百万の価値があるって言われているんだぞ! それに、ひっそり湯船に浮かんでいるかもしれない陰――」

「へっ、変態っ!」

「あ。でも逆に俺が先に入って、俺のエキスに明日夏が包まれるのを想像するのも悪くないなっ」

「……あー。もう今日は、シャワーだけにしようかなー」

 結局、彩芽の提案で順番はくじ引きとなり、彩芽・一樹・明日夏の順に決まった。



「えーと。一樹、まさかと思うけど、彩芽に対して変な目で見たりしてないよね?」

 今は女だけど、やはり兄として心配である。何だかんだで彩芽も中学三年。胸の大きさだって、今の明日夏と大差ないし。見たことないけど、裸で並んだら、明日夏より大人っぽく見えるかもしれない。

「問題ない。俺は明日夏ひとすじだからな」

「それはそれで複雑だけど……」

 しばらくして、いつもより長めの時間をかけて彩芽がお風呂から出てきた。いつものパジャマ姿である。

「入間さん、お待たせ。あ、お客さんに残り湯は悪いから、ちゃんとお風呂から出た後、洗ってお湯を入れ替えておいたから」


 その何気ない一言に、一樹がそっとがっかりしていたのを明日夏は見た。

 何だかんだで、彩芽の残り湯も期待していたのかもしれない。明日夏としては良いヒントをもらったので、一樹の後ももう一度掃除してから入ることにした。

 一樹が出てきてから、明日夏が入れ替わるように洗面所に入る。同じ家のすぐ近くに一樹がいる中で、裸になることに若干抵抗はあったけれど、彩芽がいるのでこっそりのぞきに来るようなことはできないだろう。 


「あー。やっぱり何か雰囲気が違うなぁ……」

 それでも何となく手で胸元を隠しながら、浴室に入る。

 具体的には分からないけど、彩芽や茜の後とはちょっと雰囲気が違う。

 とりあえず湯船やその周りをよく確認して、一樹の変な形跡が残っていないようなので、そのまま入ることにした。掃除してもしなくても、一樹に変な想像をされるのなら、考えるだけ無駄だ。水もガスももったいないし。



「お待たせー」

「お、パジャマ姿も可愛いじゃん。それ、女物?」

「うん。まぁ……ぼくは今までので良かったんだけど、茜姉が買ってきたから」

 和佳と泊まりに行ったときにも着ていた薄いピンク色のパジャマだ。どこがどうというわけでもないのだけれど、シンプルな男性用よりはなぜか可愛く見えるかもしれない。ちなみに、ボタンを掛ける向きもあるので、男用だと毎回混乱していたかもしれない。

「えー、ちなみに聞きたいんだが……」

「あ、ちゃんとブラはしてるからね」

 明日夏の即答に、一樹はあからさまにがっかりした様子をみせた。

「だが、その髪を下した姿はいいな。普段はいつも二つに縛っている髪型しか見ていないから、なんか得した気分だ」

「えーと。結びなおそうかな……」

 とまぁそんなこんなで夜も更けてそろそろ寝る時間である。

 さて各々の寝る場所だが。

「彩芽は普通に自分の部屋で寝るとして、ぼくは茜姉の部屋で寝るから、一樹はぼくの部屋を使って」

「えっ、いいのかっ?」

 おそらく予想外だったのだろう。一樹が驚いた様子を見せて食いついてきた。

「ううっ。あんまり良くないんだけど、いちおうお客様なんだからソファや床に寝かすわけにもいかないし、かといって、勝手に茜姉のベッドを貸すのも、やっぱり気になるし……」

 明日夏の言葉が尻つぼみになっていく。

 一樹を野放しに自分の部屋に放り込むのも、抵抗感はかなりあるのだ。

「あ、そうだ。確か予備の布団があったからそれを引っ張り出せばいいんだ。そしたらぼくも自分の部屋で寝られるし」

 明日夏は、ぽんと手を打った。

 それを聞いて、彩芽が顔をしかめる。

「ちょっと、お兄ちゃん。それでいいの?」

 何だかんだで、明日夏のことを女性と扱っての反応だろう。

 けれど明日夏はにこりと、彩芽と一樹に笑顔を向けた。

「別に大したことないって」

 何だかんだで馬鹿なことをやっていても、明日夏は一樹のことを信頼しているのだ。

「だって一樹は幼なじみで紳士で親友だもんね。しかもぼくはもともと男だし。だから一緒に寝ても変なことなんてしないよね?」

 けど一応くぎを刺しておく。

 ついでに悶々とさせられれば、今までの仕返しになるかも。

「おうもちろんだ!」

 そんな明日夏のたくらみに気づいているのかどうかわからないが、一樹は即答して胸を張った。



 というわけで。

 こうして布団を引っ張り出してきたわけだけど。

「ーーって、俺が布団で寝るのか?」

「うん」

 明日夏は当然のように、自分のベッドに潜り込んだ。一樹とはいえ、客を床に寝かせることに対する何の迷いもない返答は、さすがの明日夏クオリティである。

「ま、別にいいけどな」

 一樹もそのあたりは長年のつきあいで心得ている。

「ただ、俺って寝相が悪いからな。気づいたら、ベッドまで移動しているかもしれないなー」

「どんな寝相だっ!」

「はっはっは。まぁノータッチは当然として、髪の毛をくんかくんかくらいはしていいか?」

「だめ」

 特に動揺の見られない、いつもの通りの一樹の態度に若干の物足りなさと、逆に安心感を抱きつつ、明日夏は目を閉じた。

 いちおう一樹が完全に眠るまでは起きていようと思っていたけれど、気づいたら眠ってしまっていた。



  ☆☆☆



 朝である。

 しばらく寝起きでぼんやりして、明日夏は一樹が泊まりにきていたことを思い出した。

「……あれ」

 ただ、部屋に敷かれた布団の中に一樹の姿はなかった。もちろん、明日夏の隣で寝ていることもなかった。

 耳を澄ますと、キッチンの方から彩芽と一樹の声が聞こえてきた。


「おはよー」

「おう。もう朝食の準備できてるぞ」

「お兄ちゃん、遅い」

 キッチンでは彩芽と一樹が食事を作っていた。

「一樹って、料理できたの?」

「いや。でもまぁ何とかなるだろ。味噌汁も出し入りだからお湯に解くだけだろ」

「……大丈夫かな」

 少し不安だったけど、彩芽が一緒なら大丈夫だろう。

 明日夏は、久しぶりにのんびりさせてもらうことにした。 



「それじゃ、いってらっしゃい」

「いってきまーす」 

 電車通学分、家から学校までの所要時間が長いため、明日夏はいつも彩芽より先に家を出ている。

 ただ今日は、一人ではなく一樹と一緒だ。


「こうやって、一緒に家を出るのはいいな」

「……まぁ、たまにはね」

 食事も普通に食べられたし、こういうのも悪くないかもしれない。何だかんだで、同じ(?)男として、茜や彩芽とは違った話もできるし。

「近所の人に一緒に出て行く姿を見られたら、同棲しているって思われるかもな」

「それはないから」

 やっぱり、ほどほどが一番のようだ。




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