第4話 妹にいろいろ教わる

 というわけで、明日夏は素っ裸のまま、リビングから彩芽の部屋に移動する。

 自分と妹しかいないとはいえ、真っ裸で家の中を移動することに抵抗を感じる。

 そこで別の角度から抵抗してみた。


「ていうか、彩芽は自分の下着をぼくが付けても平気なの?」

「うーん。どうだろう。お兄ちゃんであって、お兄ちゃんでないからかなー?」

「何それ」

 奇妙な物言いに、明日夏がきょとんと聞き返す。

「全く知らない人に下着を貸すってのは抵抗あるけど、お兄ちゃんは肉親だし。だからって、男のお兄ちゃんに下着を貸すってのも絶対にいやだけど、今のお兄ちゃんのお兄ちゃんでないし……みたいな?」

「なるほど」

 よく分かったような分からないような言い回しであるが、何となくそのニュアンスは理解できた。

「あ、そうだ。これからどう呼んだ方がいい? お兄ちゃんじゃなくて、お姉ちゃんって、呼んだ方がいいかな?」

「それは勘弁して!」

 明日夏が即答すると、彩芽はくすっと笑った。

「はいはい。分かったわよ。ま、あたしにとって、お姉ちゃんって言ったら、茜お姉ちゃんだし」

「そ、そうだよね」

 首の皮一つくらいだけど、兄としての尊厳は守られた。


「――そうそう。ちなみにこのこと、茜お姉ちゃんにも通知済みだから」

「うげっ」

 一緒に暮らす以上、いつかは打ち明けないといけないだろうけど、どんどん外堀が埋まっていく。

「まぁさすがに信じた様子じゃなかったけど。そうだ。裸の写真、送っておく?」

「やめてっ!」

 明日夏はすっかり涙目になってしまった。

 その様子はどっちが女の子か分からないくらいだった。



  ☆☆☆



 彩芽の部屋には何度も入っているので、特に抵抗も物珍しさもなかった。

 とはいえ、普段しまっているクローゼットが開いて、中からぽんぽんカラフルな下着が出てくると、さすがに目を背けたくなった。


「はい。じゃ、とりあえずこれね」

 その中から一つを、ぽんと、無造作に手渡された。水色のパンツとブラだ。

 洗濯時に、姉のも妹のもしょっちゅう見ていたので、それほど抵抗はない。とはいえ、見るのと穿くのとでは大違いである。

 けれど素っ裸でいるのにも抵抗があったので、さっとパンツを穿く。これはまぁ、学校で男のときに穿かされたので、むしろ今のほうが正しい気持ちだ。


「それじゃ、ブラの付け方を教えるわね」

「え、ただ胸に巻いて、後ろを止めるだけじゃないの?」

「当たり前でしょ」

 そう言って、彩芽は明日夏の後ろに回るようにして、ブラの付け方をレクチャーする。


「まず、ブラの肩紐を通してこんな感じに前屈みになって」

「……こう?」


 明日夏は言われたとおりにする。この体勢だと胸の先に重力を感じる。股間のアレがなくなって、ぶらぶらから解放されたと思ったけれど、その代わりに胸で発生した。人類はぶらぶらから逃れることはできないんだろうか。

 と意味不明なことを考え現実逃避している明日夏であったが、彩芽のレクチャーは続く。


「そしたらバスト全体を手で包んで真ん中に寄せるようにして、カップにおさめるように整えて……」

「これってつまり、盛るため?」

「違います」

 明日夏の素朴な疑問は、彩芽に一蹴された。

 女の世界というのは、深い。


「最後に体を起こして、このワイヤーで肩紐の長さを調整するの。出来た?」

「うん。出来た。ちょっと窮屈な感じがするけど、それほどでもないし、逆にすっきりしたというか……」

 不思議と姿勢も良くなった印象だ。

 鏡に自分の姿を映してみると、下着姿の女の子が立っていた。

 素っ裸のときは、おっぱいが膨らんでいてあそこに何も生えていなくても、男が女の体になっているだけ、って感じだったのに、今は普通に見た目も気持ち的にも、女の子になってしまった、という印象だ。

「どう? ブラをつけた印象は」

「えーと。股間に生えていたときの、トランクスとボクサーパンツの違いみたいなものかなぁ」

「……なにそれ」

 彩芽に白い目で見られてしまった。たとえが悪かったようだ。


 次に手渡されたのは、ごく普通のシャツにキュロットスカートだった。キュロットスカートの方は、またの部分がけっこうしっかり形作られているタイプで、男のときは短パンじゃん、って思っていたけど、実際穿くとなれば、断然こっちの方が気が楽だ。

 というわけで、まずは上のシャツから着ようとしたのだけれど、意外と苦戦する。

「んん……これ、身体に張り付いて結構キツいんだけど……」

「女の子の服って、そういうものなの」

 彩芽がそっけなく答える。

「ぼくの方が胸が大きいから、じゃないよね?」

「あたしの方がほんの少しくらい大きいわよっ」

「……そこは気にするんだ」


 冗談のつもりで言ったのに怒られてしまった。

 これ以上機嫌を損ねたくないので、明日夏は素直に服を身につけた。

 着替えが終わったのを見て、彩芽が「はい」と明日夏の身体を鏡の方向に向けさせた。


「ああ……本当に女の子だ……」

 鏡に映った自分の姿を見て、明日夏はうめいた。

 感激の声ではなく、げんなりである。

 女の子になりたかった人だったら感動のシーンだろうけど、興味がなく無理やりされてしまった立場からすると、こういう反応が当然のはず。


 女子の制服は学校での「女装」の延長だったので、まだ心の中で納得できていたけれど、この姿だとさすがに、男だと主張することはできない。

 学校の外の、街中でも女子トイレに入れそうだ。……ていうより、女なのだから入らないといけない、なのかな。

 何てトイレのことを考えたせいか、明日夏は急に尿意を覚えた。裸で家の中をうろついていたからかもしれない。


「そういえば、微妙にトイレに行きたくなったんだけど」

「行って来れば?」

 彩芽がそっけなく答える。

「それはそうだけど……」

「それとも、一緒についてきてほしい?」

「ひ、一人で行ってきます!」


 明日夏は逃げるようにして、すぐ手前にあるトイレに、ぱたんと入った。

 キュロットなので短パンのようにパンツと一緒に脱いで便座に座る。女性二人と暮らしているので、明日夏も普段から小でも座ってしていたので、その点は抵抗ない。


「んっ……」

 座った途端、勝手に尿意が吐き出されていく。

 下は見れなかったが、ちゃんとトイレの中におしっこが出来ているのは、水音で分かった。ていうか音が結構響いて、少し恥ずかしい。女子が音消しを使う理由がわかった気がした。

 そんなことを感じていると、外から彩芽が声をかけてきた。


「お兄ちゃん。ちゃんとウォシュレット使ってから、拭かないとダメよ」

「わっ、分かってるよっ」


 言われなくても、周りが濡れている感覚はあった。

 明日夏は恐る恐る手を伸ばし、生まれて初めて「前」のボタンを押す。

 しばらくして温水が放射される。一瞬、変な感覚が走ったけれど、それはお尻に当たるときの感覚とほとんど変わらない。

 明日夏はそのことにほっとしつつ、次に何重にもしたトイレットペーパーをゆっくり近づけて、あそこに付いている水分をふき取った。

 男はでっぱりの先から出るけど、女子は閉じている穴の奥から出るので、汚れるのは構造上仕方ないみたいだ。

 男子校の噂で、女のあそこは小便くさいっていうのを聞いたことがあったけど、あながち間違っていなかったのかもしれない。

 明日夏は少しだけクラスメイト達の先をいった気分になった。

 ――けど冷静に考えたら、ちっとも嬉しくなかった。



「さてと、次はお風呂ね」

 トイレから出ると、待ち構えていた彩芽がさっそく次の試練を出してきた。

「別にまだいいよ。後で、一人で入るから」

「ふぅん。後で良いの?」

 彩芽がなぜか意味深に笑った。

「さっきもう一度、今度は写真付きで茜お姉ちゃんに連絡したら、信じてくれたんだけど。なんか逆にすごく羨ましがられちゃって。『お風呂イベントだけは残しておいて!』って言われちゃったんだけど」

「……いま入る」

 明日夏はため息をついた。

 こうして、彩芽の指導を扉越しに受けつつ、何とか女子としてのお風呂もこなした明日夏であったが、その直後に帰ってきた茜に、泣かれるのであった。



  ☆☆☆



「くすん。ひどいわ、彩芽ちゃん。先に明日夏ちゃんと一緒に初めてのお風呂を体験しちゃうなんて……」

「は、入るわけないでしょっ。何で、お兄ちゃん何かと一緒に――!」

「でも、色々教えてあげたんでしょ? 裸が恥ずかしいのなら、水着を着て一緒に入ったのかなーって」

「えーと、茜姉。お風呂のドア越しに色々言われただけだから」

「あら、そうなの。でもでももうパジャマに着替えちゃってるし。これじゃいろいろ着せ替えさせ辛いじゃない。あーでも、男物なのはやっぱりいただけないわね。明日会社帰りに買ってきて、それから……」

「あー。ご飯できたから、それは後で」


 明日夏はため息をつきつつ、唐揚げの乗ったお皿をテーブルの上に運んだ。

 家からすぐ近くの文具メーカーに勤めている茜は、基本的に五時の定時で仕事を終えて帰ってくるので、そのまま明日夏たちの夕食を作ってくれるのだが、帰りが遅くなるときは、明日夏や彩芽が夕食を作ることもある。

 今日は明日夏担当だ。もっとも色々なことがあったので彩芽にも手伝ってもらったけれど。

「あら、そう? それにしても明日夏ちゃんのエプロン姿、似合うようになったわねぇ」

「……どうも」

 茜が感動した様子で言ってくれたけれど、あまりうれしくない。

 ちなみに、茜による「ちゃん呼び」は男だったときからのものである。


「それで、初めてのお風呂はどうだった?」

 食事中、さっそく茜が話題にしてきた。

「まぁ、いろいろ大変だったなぁって感じかな」

 肌が敏感になったのか、荒いタオルで体を洗うのがつらくて、男のときには物足りなかったスポンジを使うようになった。髪の毛も男のときはシャンプーだけで、リンス? コンディショナー? 別にいらないでしょ、だったのに、それを口にしたら、彩芽に怒鳴られるし。洗い方もただ付けてごしごしして流すだけじゃなくて、面倒だし。

 唯一ポジティブに考えるとしたら、素っ裸になって体の隅々まで洗ったことで、女としての今の自分に吹っ切れたことくらいだ。女体の神秘は自分のことだからか、あまり感動しなかった。


「そうよー。女の子は色々大変なんだから。んー。お化粧はまだしない方が可愛いかしら……でも、あ、そうだ。明日の朝は私が髪を結ってあげるわね。可愛くしちゃうんだから」

「えーと。それはまぁさておいて……それよりも茜姉、順応力ありすぎない?」

 何となくおもちゃにされそうな発言をさりげなくスルーしつつ、明日夏は素朴な疑問を口にする。

 当の本人が色々混乱して悩んで、ようやく落ち着いてきたというのに。彩芽だって最初は、半信半疑だったし。


「あら、でも男の子が急に女の子になっちゃうのって、漫画の世界じゃよくあることじゃない?」

「漫画の世界じゃないしっ」

 忘れていたけれど、茜はこういう人だった。

 だからこそ「イベント」にこだわったのだろう。まぁ混乱して泣き喚かれるよりは良かったかもしれない――別の意味で泣かれたけど。


「それに、男の子でも女の子でも、明日夏ちゃんは明日夏ちゃんで、変わりないでしょ? あたしだって、彩芽ちゃんから連絡があったときは本当はすごく不安だったのよ。けど急いで家に帰ってきて、明日夏ちゃんを見たら、あ、やっぱりいつもの明日夏ちゃんだって」

「……本当に?」

 受け取り方によっては感動的なセリフなのかもしれないけれど、今までの態度を見るとあまり素直に受け取れない明日夏であった。


「で、お兄ちゃんは、これからどうするの?」

 彩芽がまともな質問をした。

 天然気味の姉と兄(明日夏本人は自覚ないけど)を持つと、しっかりするのが末っ子なのだ。


「うーん。それなんだよねぇ」

「幸い、女の子の格好をすることになっているのだから、学校はどうにかなるんじゃないかしら」

「まぁ……そうなんだけど」

 茜の言葉に、明日夏はため息交じりに答えた。

 明日夏が女装して学校生活を送るという話は、本人が軽く引き受けてしまった以上に本格的だった。女子トイレだけではなく、女子更衣室も出来ていて、体育も女子扱いになるようだ。

 そのため本物の女子だけれど、女装男子のフリをすることは可能だ。


「それとも、思い切って全部話しちゃう? 女の子になっちゃった、って」

「それは、やだ」

 明日夏はきっぱりと言い切った。

 女装している設定であの大騒ぎだったのだ。本物の女の子だとバレたら、貞操どころか命の危機さえ感じる。マジで。

「そもそも、変な妖怪か神様みたいな得体のしれない人に女の子にされた、なんて言っても世間は信じないだろうし、周りが混乱するだけだから、黙っていた方が良いんじゃない? お父さんたちも当分帰ってこないだろうし、何とかなるわよ」

「うん」

 彩芽の言葉に明日夏はうなずいた。

 こうして当面の方向性は決まった。


「ところで、お兄ちゃんのこと、知っているのは一樹さんだけ?」

「うん。今のところは」

 そう返事すると、彩芽は急ににやりと意地悪く笑って言った。

「それじゃ、和佳ちゃんにこのことを言ってもいい?」

「それはダメ!」

 明日夏は断固拒否した。

 和佳ちゃん、こと、野方和佳(のどか)は、近所の女子校に通っている明日夏の幼なじみだ。一樹同様、彩芽にとっても年上の幼なじみとして仲がよく、よく連絡を取り合っているようだ。

 ちなみに和佳はどう思っているか知らないが、明日夏としては異性としてそれなりに意識している相手である。彩芽の発言はそれが分かってのことだろう。

 はぁ、とため息をつきつつ、明日夏は思った。

 あ、でも女の子同士なら、着替えとかも一緒に……と妄想してしまい、慌てて頭を横に振る。


 とりあえず、まずは明日を無事乗り切ることだけを考えよう。



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