第17話 バイトがんばる
ホームルームの後。
帰り支度をする明日夏のお腹が、ぐぅと鳴いた。
「うー。お腹空いた……」
「女生徒役を演じるため体型維持をするのは立派ですが、昼食を減らしすぎなのではないですか。菓子パン一つだけだったようですが」
「あはは……ぼくもがんばってるんだよ」
英治の忠告に、明日夏は笑って答えた。
「で、本当のところはどうなんだ?」
英治と別れてから、一樹が聞いてきた。
明日夏が本物の女の子になってしまったことは、まだ学校では彼しか知らない秘密である。
「女子になったから、小食になっているとか?」
「まぁ多少、食は細くなったけど……、どちらかというと、今回の原因は、金欠、かな?」
「ああ。女って何かと金がかかるっていうよなぁ」
「まぁそれもあるんだけど、直接的な原因はこれなんだけど」
そう言って明日夏が取り出したのは、真新しいピンク色のスマホだった。
「ん? スマホ買い換えたのか?」
「買い換えたというか、二台目? 『あさひ』用として……」
明日夏はそう言って事情を話した。
この間の休日、偶然和佳と顔を合わせてしまったこと。とっさに明日夏のいとこである「あさひ」とごまかしたこと。なぜか一緒に買い物して意気投合し、連絡先の交換まで至ってしまったことを。
「ぼくの連絡先は、『秋津くん』として和佳の携帯にも登録されているだろうから、新しいのを買った、というわけ」
衣服類は茜がお金を出してくれるけれど、さすがにもう一台の携帯は無理だった。そこで貯金をはたいてしまったため、金欠状態なのだ。
「ほぅ。そんなことがあったのか。……ところで、その『あさひちゃん』の設定は?」
「東京の高校に通っている高校一年生って設定」
「なるほど。つまり和佳は『お姉さま』になるのか。いいなっ☆」
「……言っておくけど、ふつうの友達関係だからね」
もっとも同性という理由のせいか、明日夏としてよりも、あさひとしてのメッセージのやりとりの方が多いことは、たまに複雑に感じるときもあるけど。
「まぁそういうわけで金欠ってわけ」
「だったら、バイトでもしてみれば?」
「うーん……それも考えてみたんだけど、無理なんじゃないかなぁ」
明日夏はしみじみと嘆いた。
こんな姿格好をしているけれど、社会的な性別は男なのだ。身分証明を求められたらどうすればいいのか。お馬鹿なこの学校の男子どもは別にして、世間一般に今の姿で応募するには無理がある気がする。
「んー。まぁ学生証だけなら平気なじゃないか」
ちなみに女子の姿の学生証は学校からもらっている。別に男子校とも明記されていないし、性別欄も明記されていないので、それだけならごまかすことはできるかもしれない。
「それでも気になるようなら、一度きりの代役だが、いいバイトはあるぞ」
「えっ、本当にっ?」
一樹の言葉に、明日夏は食いついた。
そしていつものように、あとでちゃんと聞いておけばと後悔するのであった。
☆☆☆
「へぇ。一樹ってスタジアムでバイトしていたんだ。知らなかったよ」
「まぁな」
明日夏がやって来たのは、いつか和佳と野球を見に来た球場だった。
「バイトしている女の子の一人が、急用があって休みたいけどシフト的に厳しくて、代役を探していたんだ。だから助かるよ」
「ふぅん。そんなリア充みたいなことをしてたんだ」
明日夏がちょっと冷めた目で一樹を見た。
そういう相談をされる女の子とはどんな関係なのだろう。ただのバイト仲間なんだろうけど、ちょっと気になった。普段明日夏にちょっかいばかりかけている裏で、女の子たちとこんなやりとりもあったとは思わなかった。
「なんだ。妬いているのか?」
「ま、まさかっ」
明日夏は慌てて首を横に振った。
どちらかというとこれは、同じ男同士として、お互い女性に縁がないなと思っていたら実は片方はそうじゃなくてショック、というやつだ。
「で、バイトって何やるの? まさか、ビールの売り子とかじゃないよね?」
そう尋ねる明日夏に向け、一樹がにやりと笑った。
「ふっ。そのまさか、さ」
一樹の思惑にようやく気づいて、明日夏は頭を抱えた。
――だがしかし。
着替えて出てきた明日夏の姿を見て、呆然としているのは一樹の方だった。
「って、なんじゃその恰好はぁぁーっ」
「えへへ。残念でしたっ」
絶叫する一樹を前に、明日夏はにこりと舌を出して笑った。
「ていうか、やっぱり一樹の目当ては、ビールの売り子さんのアレを、ぼくに着せるためだったんでしょ?」
「当たり前だろっ!」
すがすがしいまでの即答だった。
明日夏が着ているのは赤く目立つけれど、露出は少ない服装だ。下もスカートではなくパンツ姿。肩にかける紐の先にある籠の中に入っているのは、ソフトドリンク各種である。
ここのスタジアムでは、毎回売り子が何を担当するか希望制になっているみたいで、花形のビールの売り子はバイト料もよいのか人気があって、すぐに埋まってしまった。そして明日夏に回ってきたのが、ソフトドリンクの担当というわけだ。
ビールサーバーは重そうだし、何よりあのミニスカ衣装は絶対お断りのつもりだったので、明日夏にとってもありがたい話だった。一樹は残念そうだけれどそんなの知ったこっちゃない。
「……それにしても、ひ弱なぼくが重い荷物を持っているのに、一樹はただ立っているだけなの?」
ビールサーバーの重さが何キロかは知らないけれど、ソフトドリンクの籠もかなり重く、紐が肩に食い込んでいる。
一方で一樹の仕事はチケットの確認と警備・案内など。基本的にはただ立っているだけのお仕事のようだ。
「まぁな。でも売り子は時給もよく歩合もあって、バイト料はいいんだから、頑張れよ」
「うん」
そうだ。今日はお金を稼ぐために来たのだ。試合観戦にきたわけではない。
明日夏は気合を入れ直した。
代役として研修もほとんどなく現場に出されてしまった明日夏ではあったが、何度か球場に足を運んでいるため、売り子がどう行動しているかは、大体わかっている。
えーと。
明日夏は深呼吸をして声を振り上げた。
「ジュースやウーロン茶、ソフトドリ――」
「生ビール、いかがですかーぁっ」
明日夏の声は、後ろからのよく通る大きな声によって、被されてしまった。
振り返ると、ビールサーバーを背負ったミニスカート姿の背が高いお姉さんが、じろりと明日夏を見てきた。
「ここは私の場所なの」
「は、はい」
有無を言わせない一言。視線、口調が怖い。縄張りがあるなんて聞いてないし。
「そもそもあなたの担当はソフトドリンクでしょ。だったらもっと頭を使って、家族連れや学生が多いところをねらいなさいよ」
「あ、そうか」
「それに笑顔も固いわよ。接客業なのだからもっと愛想よくしなさい」
それをこの人が言うかなぁって思ったけど、改めて彼女を見たときは、すでにお客さんに向けて可愛らしいくらいの営業スマイルを浮かべていた。
何だかんだで、新人の明日夏にアドバイスをくれたのかもしれない。
明日夏はぺこりと彼女に向けて頭を下げた。
重たい商品のかごを首から支えて、とんとんと一番下まで降りる。階段が恨めしい。
さっと観客を確認して、それっぽい人たちがいるところに、カードを掲げて近づいていく。あ、そうだと営業スマイルも付け加える。そうしたら、さっそく手が上がった。
男子高校生っぽい集団だ。男どもの集団は高校で慣れていることもあって、女性集団よりもずっと気が楽だ。ていうか、女子の集団は怖い。
バイト前の集まりでもピリピリしていたし。売り上げで給料が左右される仕事だけあって、けっこうプレッシャーが掛かっている感じだったし。
「はい。お待たせしましたっ」
というわけで明日夏は気楽な男子相手に、普段高校では見せないようなサービススマイルを浮かべた。
「ウーロン茶で」
「はい。250円です」
なんてやり取りをしていると、隣の男子が大げさにため息をついた。
「あーあ。ここで元村かよ」
試合展開への愚痴のようだけれど、そのつぶやきに、明日夏はぴくんと反応した。聞き捨てならないセリフだったのだ。
「何言ってるの。このところスタメンだと不調だけれど、元村の得点圏打率は三割かるく越えているんだから。特に代打だと四割以上――」
思わずファンとしての主張を客に向けていると同時に、大きな歓声が響いた。代打元村選手が、見事逆転となるタイムリーヒットを打ったのだ。
「ほら、ね」
「ま、まぐれだろっ」
「へー。嬢ちゃん、詳しいね」
そんな会話を客と続けていると、別の場所からも声がかかった。こちらはおじさんだ。
「あ、俺にもコーラちょうだい。車だからアルコールは飲めないんだ」
「は、はい。ありがとうございます」
ひいきのチームが得点したことで気分が良くなった明日夏は、自然と笑顔を向けた。
その笑顔を見てか、野球うんちくを聞いてか、近くの他の客からまた注文が入る。
明日夏は大慌てで立ち上がった。思った以上に忙しくなりそうだった。
試合をのんびり見てられないのが残念だけど。
☆☆☆
こうして明日夏の女子としての初バイトは無事終わった。
明日夏がカクカクと歩きながら事務所を出ると、出口のところで待っていた一樹が気軽に声をかけてきた。
「おつかれー。バイト、どうだった?」
「あしがいたい」
明日夏は無表情で答えた。
最初は楽しく、注文が入るたびに走り回っていたけど、売り子のバイトに慣れていない明日夏がそのペースで三時間以上動き回っていられるわけもなく、最後の方はひたすら苦行になっていた。売っても売っても補充するたびに籠は重くなるし。
それでも営業スマイルを浮かべないといけないのだ。
「ははは。まぁでも仲間の女の子たちとも話せて楽しめたんじゃないか」
「こわかった」
明日夏は無表情で答えた。
第一印象通り、女同士のやり取りに慣れていない明日夏にとっては、売上の奪い合いを含めた女子たちのプレッシャーは半端なく、体力だけでなく無駄に精神力も奪われてしまった。
そんな女の子たち集団の中で生きている、彩芽や茜、和佳たちは実はすごいんだなと、心から思った。
「けっこうお金もらえたし、もうバイトはこれっきりでいいや」
携帯の通信料数か月分は稼げたし、しばらくは大丈夫だろう。もう女の子に囲まれて働くのはもう勘弁である。
「じゃあ、昼飯はどうするんだ?」
「ふふふ。それは大丈夫。バイト中に、ちゃんとヒントをもらったから」
☆☆☆
月曜日の昼休み。
明日夏は学食にいた。何も載せていない空のトレーを持って、ホールを歩きまわりつつ、皆のテーブルを物色するように見ながら、誰ともなくつぶやいてみた。
「あーあ。お腹空いたなー」
明日夏の声が耳に入ったのか、ちらちらと明日夏のことを気にして見ていた後輩男子がおずおずと声をかけてきた。
「秋津先輩、よかったら、これ食べます?」
「えっ、いいのっ? ありがとうっ」
売り子として鍛えた、きらっとした営業スマイルを後輩男子に向ける。
するとそれを目撃した他の男子たちが、俺も俺もと食べ物を持ってくる。
いつの間にか、明日夏のトレーはいっぱいになっていた。それと比例するように明日夏がどんどん良い笑顔になっていく。
「自身の美貌を理解して、男子にたかっていく。本人が自覚しているかは分かりませんが、どんどん女の娘化していますね」
「ああ。だがそこがいいっ」
その光景を英治が面白そうに、一樹が満足そうに眺めていた。
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