第42話 ダイエット大作戦


「はぁぁ。クーラーが涼しい……」

「もぉぉ。お兄ちゃん、じゃまっ」

 冷えた床でごろごろしていたら、彩芽にモップではたかれてしまった。


 夏休みも、もうあと数日になった昼下がり。明日夏はごろごろと怠惰に過ごしていた。

 ――前にもこんなやり取りがあった気もするけど、気にしない。

 初日に高田や馬場たちにやらせて以来すっかり放置していた宿題も、何とか昨日のうちに終わらせて、もうしなくちゃいけないことはないのだ。町に出てナンパされる気もないし。


「そんなにごろごろしていると、太るわよ~」

 茜からも言われてしまった。

 今日は日曜日である。休みが続いているのであまり感覚ないけど。どうりでテレビ番組が面白かったわけだ。

 そんなことを今さら思いながら、明日夏はけらけらと笑って、ジュースを口にする。

「大丈夫、だいじょうぶ。そー簡単に太ったりしないって」

「うふふ。それじゃあ、試しにこれを着てみたら」


 茜が持ってきたのは、裾のところに白のラインが施されたプリーツスカート。明日夏が学校で着ている制服だった。クリーニングに出していたし、夏休み中は初日くらいしか着る機会がなかったので、ずいぶん久しぶりにみた。


「別に何てことないと思うけど」

 そう言いつつ、明日夏はその場でショートパンツの上から、それを足に通してみた。

 これくらいの生地ならぜんぜん余裕のはず……だったんだけど。

「あ、あれ……?」

 腰の脇のホックが閉まらない。

 スカートを腰で押さえつけたまま、中のショートパンツを引き抜くと若干余裕ができたけれど、それでもホックは閉まらなかった。


「そ、そんな……太った?」

「……お兄ちゃん。スカートちゃんと穿くか、ショートパンツを穿き直すかどっちかにしてよ。パンツ見えてる」


 彩芽が眉をひそめて言うけれど、明日夏の耳には届かない。

 男のときは太ろうが痩せようが、気にすることなんてなかったけど、女子だと何気にショックだ。

 女子に向けて「太った?」が禁句なのは、一般知識として知っていたけれど、まさかそれを女子の側になって実感するとは思ってもいなかった。


「そういえば体重は? どれくらい増えてるの」

「えっと、そもそも計ったことないから、元の体重分かんない」

「計りなさいよっ!」

「えー。だって男のときは気にしてなかったし」

「今は女子でしょっ」

 彩芽はがくりとうなだれた。


「で、でも。普通太るのって、お正月ってイメージだったし……」

「家で甘いジュースやアイスクリームをたくさん食べているからかしらねー。それに学校行かないで家にこもっているから、運動もしていないし」

 茜の言葉がずきずきと明日夏の胸に突き刺さる。

 女子の姿が、たとえ一時的なかりそめのものだとしても、ぽっちゃり系になるのは勘弁だ。クラスの男子どもから馬鹿にされるかもしれないし。

 それに男子に戻ったときに、この影響ですごく太っていたら、嫌だ。


「――ダイエットする!」

 明日夏は決心した。


「だったら、あたしに任せてっ」

 と割り込んできた女性の声は、茜のものでも彩芽のものでもなく――


「えっ、和佳? どうしてここに」

「えへへ。何か呼ばれた気がして」

 いつの間にか秋津家のリビングに姿を見せた和佳が、えへんと胸を張った。


 ――というのはもちろん冗談で、旅行のお土産のお裾分けに来たとのことだった。どうせ明日夏は家でごろごろしているだろうと、事前に連絡もせずにやってきたようだ。


「……任せて、って。和佳ってダイエットしたことあるの?」

 明日夏は和佳の身体に目をやる。

 別に太っているようには見えない。服を脱いだとしても……って、温泉のときに見た裸を思い出して、明日夏は思わず頬が熱くなってしまった。

 と、それはともかく。

 明日夏よりは多少、女の子っぽい丸みがあるって印象だけれど。

 それは痩せている太っているというより、明日夏の方が単に中学生に近い幼児体型ということである。


 そんな明日夏の問いに、彩芽がじとっとした目で見て告げた。

「女の子はみんな陰で努力しているの。何もしていないのはお兄ちゃんくらいよ」

「ううっ」

 そんな事実、知りたくもなかった。



  ☆☆☆



 というわけで、急きょダイエットをすることになった明日夏は、まずは和佳に師事することになった。


「ダイエットはやっぱり運動。特に有酸素運動が一番。ということで、まずはランニングしてみよう!」

「えー。こんなにくそ暑いのに」

「ん? 何か言った?」

「……いえ」


 何となく逆らえない雰囲気を醸し出されて、明日夏は素直に従うことにした。

 というわけで走る。

 町中を意味もなくランニング。急ぐ必要もないのに走る。走る。


「はぁ、はぁっ……うう、足の節々が……いたい……」

「ほらほら。あとちょっとだよー」


 明日夏の前を走る和佳が、振り返って明日夏を励ます。

 そんな和佳を、明日夏は必死に追いかける。

 運動部に所属しているだけあって、和佳の足取りは軽い。

 だが明日夏と手も、今は女子とはいえ元男子として、女の子の和佳に負けてしまうのは何か悔しいので、意地があった。


 こうして明日夏は何とか、和佳が設定したコースを走り切った。

 結構限界が来ている明日夏とは対照的に、同じ距離を走った和佳はまだまだ平気そうだ。


「はい。お疲れー。あんまり走りすぎても体に悪いから、これくらいにしておこうか」

「はぁ、はぁ。これで少しは痩せたかな」

「あはは。まさか。一日これくらいじゃ効果ないよ。毎日続けないと。あたしは部活でほぼ毎日走ってるけど」

「ううっ……」

 明日夏も中学の時は野球部だったので良く走っていた。

 けれど今となっては、そんな習慣はすっかり忘れてしまっていた。





 家に戻ると、今度は彩芽のレッスンである。

 彩芽にさせられたのは、ヨガのようなものだった。

 走るより止まっているだけのこっちの方が楽っぽい……と思っていたけれど、実際やってみると、かなりつらい。


「うーっ。この体勢、つ、つらいって……。こんなの意味があるの……?」

「インナーマッスルを鍛えるのよ。新陳代謝を良くすることで、痩せやすい身体を作るのよ。ほらほら、お兄ちゃん。もっと、こーって」

「うぐぐ。だだだ、だめっ。もう……無理」

 ばたり、と明日夏は床に倒れ込んだ。


「もーっ。明日夏ちゃん、身体固すぎだよー」

 同じように彩芽のレッスンを受けていた和佳が、口を尖らせた。

 こちらはしっかりとこなしている。


 明日夏の部屋から壁ひとつ挟んだ部屋で、彩芽は毎日こんなことをしていたのだろうか。和佳も初めてじゃないっぽいし。

 改めて女の子の実態を思い知らされた明日夏であった。





「お昼よー。和佳ちゃんも一緒にどうぞ」

「わぁぁ。ありがとうございます」

 ようやくお昼時を迎えて、明日夏はほっとした。

 茜が用意した食卓に、彩芽や和佳と一緒に座る。


 食卓に並ぶのは洋風なパスタである。

 ところが、明日夏の目の前の皿の料理だけは、微妙に違った。


「……茜姉、これは?」

「うふふ。明日夏ちゃんの麺だけ、小麦粉のスパゲティじゃなくて、ところてんで作った麺なのよー」

「えーっ」

「わぁすごい。面白そう。テレビとかで良くやっているよね。美味しそう」

 不満げな明日夏とは対照的に和佳は興味津々だ。


「じゃあ、取り替えて」

「それはダメ」

 和佳にきっぱりと断られてしまった。

 仕方なく明日夏は、パスタもどきを口にする。


「うう。まぁ美味しいけど……マズくはないけれど……普通に小麦粉のパスタの方がずっと美味しいのに……」

「それは言わないお約束よ」

 彩芽にぴしゃりと言われてしまった。テレビとはそう言うものなのだ。


「まぁまぁ。ほら。とこてんは、お通じも良くなるって言うし」

 和佳がフォローしてくれる。食事しながら言う話でもない気がするが。

 もっとも明日夏もそれを気にすることなく、むしろ「あっ」と気づいた様子で、言葉を返す。


「そういえば、ここ数日、便秘気味で出てなかったかも」

「運動不足だと、お通じが悪くなるって言うわよ~。明日夏ちゃん、ずっとぐーたらしていて、朝夜のバランスも不定期だったみたいだし」

「……お兄ちゃん。もしかしてお腹の張りって、それが原因なんじゃないの」

「あ。ちょっと行ってくる」


 というわけで明日夏は食事中にも関わらず立ち上がって、トイレへと向かっていった。

 付け焼刃とはいえ運動の効果か、ところてんの効果か。

 しばらくして、明日夏が満面の笑みを浮かべて帰ってきた。

「えへへ。すんごいのが出た」

「まだ食事中よっ!」

 さすがに彩芽に切れられた。


「今ならいける気がする」

 明日夏はぐっと拳を握ると、自室に向かう。

 どうせ試すのなら食事を終えた後より、食べる前の方が良いはず。

 クローゼットから制服のスカートを取り出す。さっき茜に渡されたのは、予備の方だろう。

 明日夏は今度はしっかりと下を脱いでから、スカートを腰に回した。

 そして――


「おーっ。はけた。穿けたよーっ。いつもの感覚だぁー」

 明日夏がはしゃぎながら、スカートをひらめかせてリビングに戻ってきた。

 それを見て、茜がいたずらっぽく笑って言った。


「ごめんねー。実は明日夏ちゃんを驚かせようと思って、さっき渡したのは、ちっちゃいサイズのやつだったのー」

 明日夏が女子の制服をもらったとき、試作品ということもあってサイズ違いの物もかなり受け取っていたようで、さっきはそれをあえて明日夏に渡したのだと、茜が種明かしをした。


「なんだ。そうだったんだぁ」

 事情が分かって、明日夏はほっとした。

 

 だが次の瞬間、悪寒というか、不穏な気配を感じ取った。

 その発生源は、和佳と彩芽だった。


「……ってことは、明日夏ちゃんは元から太ってなかったってこと?」

「――あれだけ毎日、ぐーたらだらけて、食べて飲んでいるだけだったのに?」

「え、えっと……和佳、彩芽……目が怖いんだけど」


「「知らないっ!」」

 ぷいっとされてしまった。



 その後、和佳と彩芽の態度が急に冷たくなったんだけど、とんだとばっちりだと嘆く明日夏であった。





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