1章
第1話
「いでーーーっ!」
新緑の山から吹いてきた風が、壁に貼りつけられた小さな画伯の絵を揺らす。
生活感が芽吹き始めた志河家にて、大きな悲鳴が上がった。
「おとうさんどうしたー!」
駆けつけたゆわが見たのは、足を抱えてうずくまる龍幸の姿だ。
「うわーおとうさんっ、なにがあったーっ!」
「ここに小指、ぶつけたっ……」
テーブルの足を指差すと、ゆわは「ひええ」と怖気づく。
おそらく誰もが共感できる、日常の中にある最も痛ましく恨めしい事故だ。
「ゆわもやったことある! おとうさんかわいそー。ないてるーわかるー」
龍幸の目尻からは自然と、涙が1滴こぼれていた。
「だいじょうぶ、ゆわもいたくてないたけど、いまはこうしてげんきにやってる!」
その後龍幸は「痛いの痛いの飛んでけ」療法の甲斐あり回復。
いつしかお医者さんごっこが始まっていたらしい。ゆわは「つぎのかんじゃが!」と叫びながら去っていった。
取り残された龍幸は静かに、中断していた掃除に取りかかる。
しかし、心にできた新たなしこりは、ついぞ拭い去ることはできない。
2人が牛古市に引っ越してからおよそ1ヶ月が経った。
父娘とも不安を抱えた時期は過ぎ、新たなサイクルが日常へ昇華されつつある。
ゆわは転園初日には友達を作り、3日後には家に遊びに行くようになっていた。
初通園の朝こそ家から出るまで苦労したが、迎えに行けば興奮した様子で一言。
「うしこしってジーユーないんだって!」
女の子たちに服を褒められたらしく、緊張からの解放が声に表れていた。
桜がウチにやってくれば、相変わらず2人で何やら盛り上がっている。
新たな生活と人間関係の充実、大自然と隣り合わせの環境。
取り巻くすべてがゆわに刺激を与えている。
何もかもが順調で、親子ともに心満ち足りた毎日。
しかしその中で時折、おかしな現象が起こっていた。
入居した初日、まさにこの場でゆわが言っていたこと。
「おとうさんがここにあしぶつけて、いでーーーっていってるの、おもいだした」
まるっきり言った通りの事態が起きた。
それだけなら偶然と言えるが、龍幸の中で不安感が蠢くのは、同様の出来事がここ1ヶ月で二度もあったからだ。
一度目は、スーパーでのこと。
ゆわはすれ違った幼い男の子を見つめ、わなわなとする。
「あのこ、すごいなきむしだよ」
同じ幼稚園の子なのかと思いきや、後に聞いたところ知らない子だったらしい。
龍幸らがレジに向かった時だ。行く先から子どもの猛烈な泣き声が響いた。
見れば先ほどゆわが言及していた男の子が、レジで大号泣している。
「ニンジンいらない! ニンジンいらない!」
必死の懇願はいつものことらしく、母親に焦っている様子はない。
その現場を前に、ゆわは「ほらね?」と目配せした。
二度目はドラマを見ていた時だ。
ゆわは唐突に、1人の女優を指差して告げる。
「このひと、たいほされる!」
「たいほ? なんで?」
「だ、だつぜい……?」
「どこで覚えたの、そんな言葉」
ほのぼのとしたこのホームドラマに、そんな壮絶な展開がある訳がない。
どこかで聞いた言葉を並べただけだろうと、龍幸は気にも留めていなかった。
果たして数日後、答え合わせは派手に繰り広げられる。
例の女優が出演する映画がテレビで放映された。
そのクライマックス、彼女が演じる悪役による、数億円の所得隠しが発覚。
泣きじゃくりながら連行される衝撃のシーンを、龍幸は目の当たりにした。
「ほらね?」
自慢げな娘の表情に、顔がひきつる。
無論、ゆわがこの映画を知っているはずがない。
これらの現象を説明するのに、最も適した表現を、龍幸はひとつしか知らない。
ゆわは、未来を予知をしているのではないだろうか。
まさか、ありえない。
そう失笑することが、彼には限りなく常識的で、何よりも容易い判断だった。
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