プロローグ②
駅からバスで40分。降車してさらに徒歩15分。
おんぶを要求していたゆわも、それを前にすれば途端に表情が晴れた。
「ここっ? このおうちっ?」
頷くと、歓声をあげて一直線、玄関へと駆けた。
「カギかかってる!」と目を釣り上げるも、開錠すればすぐ興奮は思い出される。
勢いよく引き戸を開き、家中を走りだした。
フローリングはところどころ剥げ、柱や梁には画鋲による穴が点々と見られる。
部屋も廊下もホコリ1つないが、この家には確かな生活の跡が存在した。
「へやいっぱーい! あ、ゆわこれしってる、タタミっていうんだよ!」
和室を見つければ、畳の上に寝転がり「クサくさーい」と愉快に笑う。
今度は階段を発見したゆわ。
「うそー、うそだー!」などと叫びながら駆け上がった。
「おとうさん、にかいあるー!」
「そうだね、手に余るくらいだ」
「テニアマルースゴすぎるー!」とゆわはベランダへ飛び出していく。
霞がかった空の青と白、遥か遠くに見える山々と田園の緑、ポツポツと小さくも存在感を示す桜の桃色。そこから見えるほとんどは、自然が生んだ色彩だ。
「すごいねえ、たかいねえ」
「でも、前のマンションの方が高かったよ?」
「うーん、ゆわはこっちのほうがすき。ここにすむの?」
「そうだよ」
「ずっと?」
「たぶん、ずっと」
「おとうさん、がんばったんだね」
「……なんだよそれ」
ゆわは抱えあげられると、龍幸の頭をポンポンと叩いた。
ふと、龍幸は腕の中のゆわに違和感を覚える。
眠る直前のように、目がぼんやりとしていた。
「ゆわ、ここきたことあるっけ」
「いや。元々ゆわのひいばあちゃんちだけど、お父さんもこの前初めて来たんだし」
「ひいばあちゃんってなに?」
「ゆわのお母さんのお母さんのお母さん」
ゆわは「なんだそれー」とゲラゲラ笑う。
そこにはもう、先ほどの夢うつつな雰囲気はなかった。
「龍幸くーん」
見下ろすと、庭に1人の男性が立っていた。瞬時に龍幸は顔を引き締める。
「五郎さん、どうぞ。鍵は空いているので」
比較的ダンボールの少ない窓際の和室で落ち合った3人。
冷えていない麦茶に氷を入れて差し出されると、五郎は一口含んだのち、グラスの水滴を拭ってからそっと畳に置いた。
「こっちはまだ寒いでしょ。北陸の春はまだまだ先だよ」
「すみません、何から何まで。なんとお礼を言ったらいいか……」
「仰々しいなあ。いいんだよ、僕は立ってただけだし。最近の引越し業者ってすごいね。これだけの荷物があっという間に収まっちゃったよ」
五郎は目尻に深い笑いジワを作り、鷹揚に答える。
傍らで畳の目を数えているゆわを見つけると、わざとらしく目を見開いた。
「ゆわちゃん、またちょっと大きくなった?」
ゆわは「うひっ」と笑い、胸をはる。
「そうかもね!」
五郎はゆわと並んで姿見の前に立つと、納得するように頷く。
「ほらもうお腹より上だ。大きくなったね。最後に会ったのは半年くらい前かな」
「うん、おそーしきのとき」
ほんの少しの沈黙が通りすぎると「そうだね」と五郎はゆわの頭に優しく触れた。
その後流れるように部屋作りに取りかかった。大人二人で家具を並べていく。
「あ、しまった。電池買い忘れちゃいました」
「コンビニでかってくればいいじゃん」
「ゆわちゃん、コンビニはね、ここから車で20分くらいかかるんだよ」
慌ただしい大人2人につられ、ゆわも初めは役に立とうと振る舞っていた。
だが限界は、思いのほか早く訪れる。
「おとうさん。ゆわ、そとみてきていい?」
「えー、ゆわこの辺知らないでしょ。迷子になっちゃうよ」
「ならないかもよ」
「なるかもしれないでしょー」
大人の不安は子どもには伝わらないもので、ゆわはむう、と口をつぐむ。
「じゃあ、お庭でなら遊んでていいよ。お父さん達から見えるところでね」
そうしてゆわは、庭先でおとなしく地面にお絵かきを始めるのだった。
そこまでのやりとりを静観していた五郎は、唸るように呟いた。
「ゆわちゃん、本当にいい子だね。素直だし、わがままも言わない」
「いや、言う時は言いますよ。ウソだってつきますし」
「全然見えないよ。桜が5歳の頃なんて、口から出るすべてがわがままだったよ」
娘の話をする五郎の顔には、いつでもひとさじの疲労感が浮かんでいる。
「そういや桜がいないな。まだ家か。ゆわちゃんの相手しろって言ったのに」
五郎の家はこの家のお隣にあたる。
誰も手を入れていない広大な田地を挟んで、というのが正確な表現だ。
その時「あーっ!」とゆわの弾む声が響く。
「サクラちゃんだーっ!」
その猛烈な名指しに、桜は愛嬌の溢れる笑みで応えた。
「やー、ゆわちゃん。また可愛くなったねー」
ゆわは彼女めがけ全速力で駆け、猛烈な勢いのまま抱きつく。
桜は「ぐぇ」と呻くと、仕返しとばかりの手荒さでゆわの頭を撫で回した。
「おらー、愛が激しいんだよーゆわちゃんはー」
「ゆわっ、ハゲてないしぃーっ」
龍幸と五郎が降りてきても、ゆわは世界が終わるまでそうしていそうなほど笑い続けていた。桜は龍幸を認識すると、軽く頭を下げる。
「ちっす、志河さん。電池持ってきましたよ。引っ越し大変そうですね」
「だからおまえにも声かけたんだろ。何してたんだ」
五郎の問いかけには、気のない相槌を打つ、それだけだ。
その間もゆわは桜のスカートにしがみつき、揺さぶり続けていた。
「サクラちゃんっ、サークーラーちゃんっ、あそぼーっ!」
かねてよりゆわは、異様なほど桜に懐いていた。
それは高校生という大人の1歩手前に立つ存在への憧れや、彼女の子どもっぽく親しみやすい性格によるものだろう。
ただ一番の理由はその外見、特に主張の強い髪にある。
「よし、遊ぼうかー。あ、でも志河さん。私、髪ピンクですけど大丈夫ですか?」
桜色に染髪しているのだ。
安いカツラのような色ではないので、都会ではきょうび珍しい髪色ではない。
ただこの見渡す限りアースカラーに満ちた世界では、誰もが二度見するだろう。
しかしそれこそが、ゆわのハートを撃ち抜く要因でもある。
「ガリドリみたい!」
ゆわは桜と初めて会った時、そう叫び目を輝かせた。
「ガーリードーリー」の略で、日曜の朝に放映している女児向けアニメである。
風変わりなそのピンク髪は、幼児にとっては憧憬の象徴なのだ。
「大丈夫って、何が?」
桜の不可解な問いに、龍幸は疑問で返す。
彼女はいたって真面目な顔で答えた。
「私の髪ってどうなんですか、教育上。健全な成長への悪影響になりません?」
そもそも髪を染める以前から、桜は変わり者として親戚の間で有名だった。
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