第41話
いつの間にか、ゆわは泣き疲れて眠っていた。
夕飯の準備はまだできない。
風呂掃除は、昨晩ゆわが手伝いたいと言っていた。
ゆわが今着ている服も一緒に洗ってしまいたいので洗濯も待った。
考えなければいけない幾ばくかは、今だけは、遠くに置いておきたい。
ぽっかりと、龍幸は暇を作ってしまった。およそ一時間もないだろう余暇、したいことすべきことは何ひとつ、彼の頭に浮かばない。
今この人生は、ゆわを中心に回っている。それが如実に表れている時間だ。
龍幸の足は仏間へ向かっていた。
仏壇に放置してあった母子手帳、引き出しに戻そうと手に取る。だが一度開いたが最後、気づけば数十分眺めていた。
閉じれば今度は「侑和」との文字が龍幸の目を釘付けにした。
そういえば春頃、ゆわに名前の由来を教えたことがあった。何でだったか。
そこで、玄関のチャイムが鳴り響く。訪れたのは流子だ。
「すみません。ハナがゆわちゃんに言ったこと、母から聞きまして。この度は……」
「いえいえそんなっ……」
母としての責任を感じ、仕事から帰ってすぐにやってきたのだろう。流子の顔には疲労感が色濃く出ている。
ただそこには、龍幸の知らぬところで蓄積された疲労もあるようだ。
「それで、今ハナちゃんはどんな様子ですか……?」
「それが……母が相当厳しく叱ったらしく、部屋に閉じこもってしまいまして……ハナも怒られたことに腹を立てているというより、母の死が近いことを子どもながらに理解して、自分を嫌ってどこか行くんだと勘違いしているようで……」
何でこんなことに、と流子は苦々しくため息をついた。
誰もが誰かを思い、それぞれが行動をした末に、最悪の状態に至った。
2人の話し声で起きたのか、ゆわが目をこすりながらやってくる。流子はゆわを見つけるやいなやしゃがみ、同じ目線で語りかける。
「ごめんねゆわちゃん、ハナがひどいこと言って……」
「……え?」
ゆわは流子の瞳をじっと見つめる。
そうしてなぜか、そのままピクリとも動かなくなった。流子は首を傾げて龍幸の顔を確認する。龍幸はというと、勘付いていた。
ゆわは今、流子の未来を見ている。
その幼い顔には徐々に驚きと困惑、そして絶望が浮かんでいく。
「……ウソ、なんで……」
ゆわが示したのは、この不穏な言葉ただひとつだった。
その日の朝は分厚い雲が牛古市を見下ろし、寝室は6時すぎでも夜中かと錯覚させるほど薄暗かった。
気圧に体調を左右されやすい龍幸は、首から肩にかけてをさすりながら、朝の家事を進めていく。
起きてきたゆわは、見るからに元気がない。
消え入りそうな声で龍幸に挨拶すると、居間にて電源の入っていないテレビに顔を向け、ぼうっと佇んでいる。
昨晩見た流子の未来の光景が、相当こたえたようだ。
それは、先日見たハナの未来とまったく同じ状況。
しかしハナの態度や言動に大きな変化があった。
病室にて、今際の際に立つ多江へ、ハナは謝罪ではなく糾弾を繰り返す。
「ハナもうしらない!」「おばあちゃんなんてだいきらい!」
流子はハナを大声で叱りながら、大粒の涙を流していたと言う。
未来が変わったのだ。
おそらく昨晩のゆわとのケンカがトリガーとなって。
ハナは多江が自分を捨ててどこかへ行くと勘違いし、多江への怒りを募らせる。結果として多江とハナは考えうる最悪の別れ方をする、そんな未来が迫っているのだ。
この光景を誰よりも早く見てしまったゆわ。あまりに衝撃的だったのだろう、昨晩は未来の出来事を龍幸に説明すると、すぐに布団に入っていった。
そして今日も、龍幸からの呼びかけに短く答えるのみ。幼稚園へ向かう車の中、ゆわは無言のまま、自身の膝を見つめている。
「……ハナちゃんはさ」
不意に、ゆわが口を開いた。
「なんでおばあちゃんに、だいきらいっていうのかな」
「おばあちゃんがハナちゃんのこと嫌いなんだって、勘違いしてるんだと思うよ」
「……おばあちゃんさ、ハナちゃんとあんまりはなしてないよね」
「そうだね」
「なんではなさないの。ふたりでおはなしすれば、なかなおりできるじゃん」
「それは……何でだろうね」
龍幸の頭には自然と、昨日の多江の言葉が反芻される。
「私の死とハナの教育は、別問題よ」
この理屈は間違いなく、ゆわには理解できない。
龍幸にとってもそうだ。仮に多江と同じ立場でも、同じ行動はとらない。
ただし龍幸は、多江を否定する言葉を見つけられずにいた。
「コーヒーゼリーなのかな」
ゆわは口にしたこの言葉の意味が、はじめ龍幸には分からなかった。
「ゆわはわからないけど、おばあちゃんはハナちゃんとなかなおりしないほうが、しあわせっておもってるのかな」
そこで龍幸は把握する。
数日前、龍幸がゆわに語った幸せに関する考え方だ。
「どうかな……でもおばあちゃんだって本当は……」
「ゆわ、やんないほうがよかったかもね。なかなおりさせるの」
「そんなことないよ!ちゃんと仲直りした方がいいと思うし、おばあちゃんだって本当はそう思ってるはずだよ」
ゆわは一度唸るように相槌を打つ、それだけ。そこには肯定も否定もない。
今ゆわは、ハナの友達として、くだんとして、どうあるべきか自分自身を見失っていた。当たり前だ。昨日一日で、どれだけことが彼女にあった。
一度、噛み砕く時間が必要かもしれない。
そう思った龍幸は口をつぐみ、考えるのをやめようとした、その時だ。真新しい苦味の詰まった記憶が、脳をよぎる。
「おかあさんのはなし、したいよぉ……おかあさんを、わすれたくないよぉ……」
二度とゆわを1人にしないと、そう決意したはずだ。
「ゆわ。結構前だけど、ゆわの名前がどういう意味かって話、覚えてる?」
後部座席から、微かな声で「ちょっとだけ」と聞こえてきた。
「ゆわって名前はね、お父さんとお母さん、2人で考え合ってできた名前なんだよ」
その言葉に反応はない。
龍幸は時折バックミラーへ目を向けながら、続ける。
母子手帳に空が書いた四文字の秘密。
「人を助けるって意味の侑は、お父さんが使いたいって言ったんだ。そしてもうひとつの和は、お母さんが考えた。2人の思いを合わせて、侑和って名前になったんだよ。それで、和がどういう意味だったか、覚えてる?」
「…………」
「みんなを仲良くさせるって、意味だったよね」
六年前の春の日。
大きなお腹をさすりながら、空は龍幸ではなく胎児へ語りかけるように、告げた。
「私は、和って文字をあげたいな。親和の和」
「あ、いいね。友達と仲良くできるようにって感じで」
「それもそうだけど、みんなを仲良くさせる存在であってほしいなって、思って」
意外な発言だった。
真意を聞いてみると、空はカラッとした笑顔で答える。
「だって私も龍さんも、それができない人間じゃない」
「え、いやそんなこと……あるか……」
「でしょ」と、彼女は自虐的に笑う。
「でも、僕らにできないことを子どもに背負わせるのって……どうなのかな」
「だからこそよ。子どもに乗り越えられてこその親でしょ」
初めからハードルである前提、という考え方は龍幸にはまるでなかった。
「大丈夫。この子は絶対、それができる。私には、見えるもの」
空は優しく、しかしどこか鼓舞するように、お腹をさすり続けた。
懐かしい思い出に涙腺をくすぐられる。龍幸は信号待ちで目を拭うと、バックミラーに映るゆわの瞳へ、まっすぐに視線を送る。
「ゆわに、みんなを仲良くさせられる人になってほしいって願ったのは、お母さんなんだ。だからね、ゆわの力でハナちゃんとおばあちゃんを仲直りさせられれば、ゆわが見た未来はいいものに変わるかもしれないし、お母さんだって喜ぶと思うんだ」
空が示した通り、龍幸からゆわへ、名前に込めた願いを言い伝える。話している間、一切の動きも見せなかったゆわ。うつむきながら、一言。
「でもゆわ……ハナちゃんなかせちゃったし……たぶん、やれない」
それを最後にゆわは、再び殻にこもるように押し黙った。
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