第42話
「私が帰った後で、そんな色々なことが……」
龍幸は桜へ、昨晩の出来事を明かした。ゆわの告白、流子の未来、ハナと多江の関係悪化。助手席に座る桜は自分のことのように頭を抱える。
「昨日の多江ばあちゃんの言葉が存外、効いてしまって……家で考え込んでいたんですけど、それどころじゃなかったんですね」
多江のハナに対する姿勢と覚悟は、十分に人を思考に向かわせるものだった。その後の波乱がなければ、龍幸も仕事中はその問題が頭を占めていただろう。
桜は新たな情報の氾濫に混乱しながらも、ゆわの告白を一番に考える。
「私も、身に覚えあるかも。ゆわちゃんがいるところで空姉ちゃんの話題が出ると、ちょっとドキッとしてました。顔に出てたんだろうなぁ……」
「うん……もしかしたら空が言っていた呪いって、これのことだったのかもね」
ここまでほぼ顔を見ずに会話していた桜が、運転席の龍幸の横顔を見つめる。
「僕はてっきり、ゆわや僕が空を追い求めてしまうことを呪いって言っているのかと思っていたんだ。でも実際にゆわに呪いをかけたのは僕を含めた大人たちで、空はこうなると予期して、僕に注意喚起してたのかも……」
「そうやって空姉ちゃんを神聖化するのも、原因のひとつじゃないんですか?」
龍幸は思わず隣の桜へ視線を流してしまう。「安全運転!」と指摘されると、慌てて前方を向き直した。
無意識の発言だった。龍幸は背筋を凍らせる。
空の死に意味を与えてはいけない。わかっていたはずだが、自然と思考がそちらに流れていた。このこびりついた先入観が、ゆわを傷つけたのではないか。
「……桜ちゃんがいてくれて、本当に良かったよ」
「何ですか、それは。本当にもう」
桜はそっぽを向くと、冷えた手のひらで赤くなっている耳を包む。そうして熱っぽいため息を合図に、話題を戻した。
「自分の死を小さくしようとする理由は、空姉ちゃんも多江ばあちゃんもたぶん同じです。なら、やっぱり未来は変えないと。今のままじゃハナちゃんにとって、大きな傷になってしまいます」
「そうだね。ただそうなると、ゆわにももう一回、頑張ってもらわないと。ハナちゃんを説得するのは、たぶんゆわが一番良いと思うんだ」
「それもそうですけど、何より多江ばあちゃんを急かした方が良いと思うんですよ。来月死んじゃうよって言って。あれだけ自分を持っている人なら、いつ死ぬか言っても大丈夫じゃないですか?トモヨちゃんの件があるから、たぶん信じるでしょうし」
それは乱暴だが、正論でもある。
今、龍幸らの前にある問題を最も効率的に解決する方法はおそらく、ゆわが見た未来の光景を多江に告げることである。
龍幸ももちろん理解している。
だが彼は同時に、自分が臆病だとも自覚している。
「それは……ごめん。まだできない」
「なんでですか」
「僕には……多江さんが死を恐れているように見えるんだ。不思議と」
納得できない、と顔に書いてある桜だが、それを口にはしない。ただ彼女の性格を考えれば、いつ多江に暴露してもおかしくない。それも顔に書いてある。
幼稚園の駐車場に到着するも、桜は助手席のシートベルトを外さない。普段は龍幸と共にお迎えに行くが、少しひとりで考えたいと告げて目を伏せた。
ゆわは朝と何ら変わりない様子で龍幸を出迎えた。言葉は少なく、表情は静かに悲哀を映している。
「今日は、ハナちゃんとお話しできた?」
「……ハナちゃん、休みだって」
「そっか……帰ろうか」
ゆわは無言で頷くと、荷物を取りに一度教室へ戻っていった。龍幸は立ち尽くし、無造作に頭を搔く。
するとそこへ、意外な人物が話しかけてきた。
「志河さん、ちょっといいですか?」
中林である。そして彼女の隣に佇む娘のリンは、上目遣いで龍幸を見つめていた。
リンのつぶらな瞳から連想されたのは、春の出来事。ゆわがくだんとしてリンを救った、誰も知らない小さな英雄譚だ。
リンは母親に促されると、モジモジとしながらひとつのお願いを口にした。
雲の間から西日が顔を出し、牛古市を照らし出した頃。志河家から100メートルほど離れた家から、2つの黄色い声が賑々しく響いた。
「しょうたくん、リンのゆびにぎったよ! かわいいー!」
「あれーゆわのゆびはにぎってくれないー、なんでー」
牧家の居間には洋子と桜と笑太に加え、ゆわと龍幸、そしてリンがいる。
ゆわとリンはベビーベッドを囲み、笑太の一挙一動を見て大げさに反応する。洋子と桜はそんな2人を、微笑ましそうに見つめていた。
リンが龍幸にしたお願い。
それは笑太を一目見たい、ということだった。
ゆわから笑太の話を聞いていたリンは、常々羨ましく思っていたようだ。そこでリンと笑太を会わせる機会を与えてほしいと、龍幸は中林を通じて頼まれたのだ。
生後4ヶ月となった笑太は大きくなっただけでなく、感情表現も豊かになった。そのせいもあり、園児2人はいっそう母性をくすぐられているようだ。
「リンちゃん、抱っこしてみる?」
洋子の提案に、リンは雷に打たれたように体を震わせる。
恐る恐る笑太を抱えるリン。
初めは龍幸や桜までハラハラするほど緊張していたが、その重さと体温を感じてからは、驚きと興奮による複雑な笑みを浮かべていた。
しかし、笑太は違和感に敏感なようだ。リンに抱かれてものの十数秒でぐずりだした。大いに慌てるリンに、洋子は平然とした様子で告げる。
「じゃあ今度は、ゆわちゃんが抱っこしてみ」
「ええっ!」と名指しされた本人は背筋をグンッと伸ばす。
笑太を渡されると、ゆわは動揺しながらも「おーよしよし、しょうたくーん、かわいいねーかわいいねー」とあやし出す。
「君もね」と桜はこっそり呟いた。
すると笑太は、泣き止むどころか笑い声を上げた。その事態に部屋がどよめく。
「やっぱり、笑太もゆわちゃんには懐いてるのよね。笑太はゆわちゃんのおかげで、無事に生まれてきたようなものだもんねー」
洋子は笑太を受け取ると、腕の中の彼に語りかけるようにそう話した。
何でもないように言ったが、当のゆわはキョトンとする。龍幸と桜も小首を傾げているが、リンだけは目を輝かせた。
「そうなのっ? ゆわちゃんすごい!」
「え、いや、ゆわはなにも……」
「ゆわちゃんはずっと、産まれる直前まで笑太にいっぱい話しかけてくれたじゃない。それのおかげで問題なくスルッと出てこれたんだもんねー笑太は」
さらに洋子は桜に視線を送ると、ニヒルに笑って続ける。
「それにゆわちゃんは、桜とお父さんを仲直りさせてくれたもんね。そのおかげでどれだけ私も楽になったかー」
桜は「まだ言うか」と愚痴りながらも、否定はしなかった。
言うだけ言うと洋子は「おしめ替えてくる」と笑太を抱えて出て行く。ゆわは手に残る笑太の余韻を確かめるように、自身の両手を見つめていた。
「……サクラちゃん、ヨウコさんがいったの、ほんとうかな?」
桜は面映ゆそうにしながらも、ゆっくり応える。
「そうだよ。ゆわちゃんがきっかけで、私とお父さんは……まあ、前よりも仲良くなった……ですよね。うん、はい。なりましたよ、はい!」
後半だいぶ揺れたものの、最後にははっきり肯定した桜だった。
ゆわはその言葉を噛みしめるように「そっか、そっか」と独り言を繰り返す。
この流れに乗ってきたのは、リンだ。
「ゆわちゃんは、やっぱりヒーローなんだね!」
凛としたその声は、どこかくすぐったい雰囲気の中でキンと響きわたった。ゆわは目を見張り、無邪気に笑うリンを見つめる。
「リンのはっぴょうかい、こわかったときも、ゆわちゃんがたすけてくれたもんね」
リンは両手でゆわの手を握る。
「たすけてくれてありがとう」と改めて感謝を口にした。
ゆわは顔を真っ赤に染め上げ、それでも力一杯「うん!」と応えた。
それはまるで、絵画のように完成された美しい光景であった。
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