第43話
日が落ちる時間には中林が迎えにきて、リンは幸せそうな表情で帰っていった。
龍幸は帰宅してすぐベランダの洗濯物を取り込んだ。そして夕食の準備に入ろうと一階に降りたところで、異変に気づく。
仏間の引き戸が空いている。
覗き込むと、ゆわが仏壇の前で小さく座り、空の写真を静かに見上げている。
「ゆわ、どうしたの?」
「んー……」
空気が抜けるような返事をして、ゆわは再び黙る。その横顔は龍幸に何ひとつ教えようとしない。考え事をしているのだろうが、その内容が明か暗かもわからない。
この静けさが落ち着かず、龍幸は話題を見出そうと見回す。
「あ、これ懐かしい」
目に留まったのは、仏壇の端に置いていた、ひとつのお守りだ。
「山の方にある神社、知ってるでしょ。ゆわがまだお母さんのお腹にいた頃、2人で
行って買ったんだよ」
「へー、そうなんだ」
「あと、お母さんが小学生の時に、その神社でタヌキを見たんだって」
「えっ、タヌキいるのっ?」
「今は分からないけどね。お母さん、どうしても捕まえたくて追いかけていったら、遭難して大騒ぎになったんだって。しかも町の人大勢で探してたのに、見つかった時お母さん、穴掘ってタヌキの罠作ってたんだって」
「おかあさんのこどものとき、ヤバいね」
ロクな話がない。それでも龍幸の中では話せば話すほど空の思い出が湧き、口も滑らかに動いていく。
いつしかゆわの反応さえ気にせず、龍幸は語り続けていた。
「ふひひ」
堪えきれずに出たような声。
ゆわの不自然なタイミングでの笑いに、龍幸は「どうしたの?」と尋ねる。ゆわは口を両手で押さえつつ答える。
「おとうさん、おかあさんのハナシいっぱいしてて、うれしい」
そして再びくすくすと笑った。龍幸もつられて顔をほころばせる。
「ゆわもないの? お父さんが知らない、お母さんの話」
「あるよ。いっぱい、おかあさんのハナシ」
じゃあ聞かせて。
そう言おうと龍幸が、ゆわの顔を覗き込む。
その瞬間、龍幸の頭から言葉が消失した。
ゆわは、笑っていた。
しかしそこに愉しげな感情はない。
目を細め、困ったように眉を下げ、それでも虚ろに口角は上がっている。今まで見たことのない、曖昧な表情だ。
「おとうさん、あのね。ゆわ、ハナちゃんとおハナシしたい」
龍幸の背中にはどうしてか、冷たい汗が伝っていった。
夕飯時も過ぎた頃であるが、多江と流子は龍幸とゆわ、そして桜を歓迎する。
龍幸が金田家を訪問すると伝えると、桜は5分も経たずに飛んできた。
「今ハナ呼んでくるね。ゆわちゃんがいるってきけば、でてくるかも……」
ハナはほとんど自分の部屋から出ず、入室を許しているのも流子だけ。多江とはゆわとのケンカを叱られて以降、顔も見ていないという。
「出てきやしないよ。本当にあの子は、思い通りにいかないとすぐにいじける」
多江は冷たく吐き捨てる。
そこにはもうトレードマークといえる余裕の笑みもない。
ゆわは一言も発さず、神妙な面持ちでハナの部屋の方に目を向ける。桜はというと、溜まったフラストレーションが燃える瞳から溢れ出そうだった。
「多江ばあちゃん、私やっぱり、昨日のばあちゃんの言い分はおかしいと思う」
桜は最後まで、自分の価値観を信じるようだ。はっきり、多江を否定した。
「空姉ちゃんが生前、言ってたんだって。自分の死が呪いになるのがイヤだって」
その言葉に、多江は視線を龍幸に移す。龍幸は頷いてみせた。
「このままじゃ、そうなっちゃうよ。このまま死に別れたら、ハナちゃんは何年も苦しみを抱えていくことになるよ。それって本当に、辛いことなんだよ……」
声は震えているが、けして涙は見せず、気丈に振る舞う桜。
その言葉の重みを、龍幸は知っている。まさに桜は経験してきたのだ。人に言えない苦しみを、何年も抱えて生きるという苦行を。
多江もそれを察しているだろう。桜への眼差しには慈愛がこもっていた。
だがその訴えさえ、多江を動かす呼び水にはならない。
「呪い、大いに結構よ」
言葉を失う桜。
多江は昨日と変わらない、厳粛な表情で続ける。
「ハナはまだ心が弱いの。なのに父親代わりをしていた私がいなくなったら、あの子はどうするの。弱いまま育ったら、理不尽で厄介なこの世をどう生き抜くの。だから私が呪いになってでも、強くさせなければいけない。結局は後悔が自分を強くするのだから、この経験を機に苦しむのは良いことよ。私の死がハナの心の成長の糧になるのなら、本望よ」
淡々と語っていた多江だが、言葉を重ねるごとに語気が強くなっていき、最後の一言を言い放った後には激しく咳き込む。その姿に桜やゆわは気圧されている。
夜の外界を切り取った窓を背にした多江。目には不気味な光を湛え、まるでそのまま闇に溶け込んでしまいそうだった。
だが龍幸は、闇に溶け込むことも、それを覚悟と捉えることも、許さない。
「死を糧に、なんてやめた方がいいですよ」
意外なところから飛んできた反論に、多江は目を見張る。
「人は人の中で生きていれば、勝手に強くなりますよ。勝手に後悔して、勝手に失望して。誰かがわざと苦しみを与えるなんて、そんな必要はありません」
「……それは絶対って言えるの?すべての人に当てはまると思うの?」
「そこまで大それたことは言えません。でも絶対にしてはいけない行動は分かります。人の死に意味を見出すことと、自分の死に意味を与えることです」
多江は、応えることなく押し黙る。
「だから多江さんが前に言っていた、死にゆく人が生きていく人のためにすべきことはない、というのは、限りなく正しい考え方なんだと思います」
空と多江の死生観は似ている。
呪いだ、生きていく人のためだと言っているが、つまりは自分のせいで誰かが苦しむのがイヤだという、当たり前の感情が秘められている。
そしてその裏にはきっと、それこそ誰しも普遍的に祈るはずの願望がある。
「でも僕は、死にゆく人が生きていく人のために、また生きていく人が死にゆく人のためにすべきことは、ひとつだけあると思っています」
「……何?」
「思い出を残すこと、そして思い出を語り継ぐことです。くだんの話……トモエちゃんの話のように」
一言も発さず大人しくしていたゆわが、そこで大きく頷いた。
「空は生前、こう言っていたんです。ゆわは自分とのどんな思い出を持っていってくれるのだろうって。これはつまり、綺麗な思い出だけ持っていってほしいって、祈りだと思うんです。思い出してほしい、忘れないでほしいって、空は願っていたんですよ。多江さんだって、本当はそう思っているんじゃないんですか」
そこで言葉を区切った龍幸は、多江の瞳から目を離さず、答えを待った。桜やゆわも緊迫した面持ちで、口を挟まずじっとしている。
ヒリヒリとする雰囲気の中、多江はしばらく口を閉ざしていた。それが開いた時、最初に出てきたのは、今なお苦悩が生成しているため息だ。
「思い出、ね。それをハナへ、何の問題もなく、与えられればどんなにいいか」
多江の顔には、先ほどまではなかった笑みがにじむ。
しかしそれはポジティブなものではない。諦観という感情が表れた苦笑だ。
「どこへでもハナと、一緒に行ってあげたいわ。遊園地でも水族館でも……もしも身体が許すのであれば」
桜が「どういうこと?」と問いかける。
ポツポツと語り出したのは、「強いおばあちゃん」が今日まで抱えてきた恐怖だ。
「そもそも遊園地に行けなかったのはね、怖かったからなの。もしもその場で倒れてしまったら。そのまま死んでしまったら。とてつもなく大きな傷をハナに与える。それが他の何より、死よりも怖いのよ。もしも今、仲直りをして、今度こそ遊園地に連れて行って、なんて言われたらどうしたらいいの?私だって綺麗な思い出として残っていたいわ。けれどそれが、最悪の思い出にならない保証なんてないじゃない」
怯えた表情と弱々しい声。
その時龍幸は、初めて多江の本音を聞いた気がした。
真実を聞いた桜は、目を悲しそうにしぼませる。ゆわもどこまで理解できたかは定かでないが、切なそうにうつむいている。
龍幸はひとつ、多江を救えるかもしれない方法を思いついていた。
だがすぐに行動に起こせないのは、彼もまた、その一歩に恐怖を抱いているから。
ふと、龍幸の手の甲に温かな何かが触れる。
ゆわが手を置いて、龍幸を見上げていた。
それはまるで、体温とともに勇気を分け与えられているようだった。
「……多江さん。もうひとつ、聞いてもらいたいことがあります」
改まった文言に、多江や桜は顔を上げる。
バクバクと心臓は弾み、息は乱れていく。
龍幸は、些か張った声で、言い放った。
「ゆわは、くだんなんです」
空気が一変する。
それはまるで、世界中の白と黒が入れ替わったように。
多江は目を皿のようにし、頓狂な顔をしていた。桜は口をパクパクとさせている。
そしてゆわは、至って真面目な顔で何度も頷いていた。
「ゆわは見たんです。10月27日、多江さんが病室で息を引き取るという未来を」
多江はそのパチクリとした目を、ゆっくりとゆわへと向ける。するとゆわは無邪気な声で告げた。
「ほんとだよ。ゆわ、くだんなんだよ。いっぱい、ミライみてきたんだ」
ゆわの言葉を最後に、沈黙が生まれる。多江は茫然をしたまま、動かなかった。
龍幸と桜は、ハラハラとしながら彼女の反応を待つ。
「ハハッ!」
多江はまず短く吹き出すと、その後しばらく笑い続けていた。大声を出して、何の屈託もなく、愉快そうに。
龍幸は慌てて付け加え、桜もそれに参加する。
「あ、あの、信じられないでしょうけど、本当なんです!」
「そうだよ!私もゆわちゃんの未来予知、いっぱい見たんだから!」
それでも多江の笑いは止まらない。
目からは涙がにじんでいた。
「ご、ごめんごめん……そういう意味で、笑った訳じゃないの……」
「じゃあ、なんで……」
ふと、龍幸が気づく。
泣き笑いだったはずの表情から、徐々に笑みの割合が小さくなっていく。代わりに涙は、止まることなく流れ続ける。
多江は、絞り出すように、答えた。
「2人ものくだんに救ってもらった、こんなにも素敵な人生……残り1ヶ月を大切にしなきゃなって、思ってね」
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