第40話

 帰宅しても、ゆわの表情は晴れない。

 どうやらハナを泣かせてしまったという罪悪感の方が強いようだ。


 龍幸は夕飯の準備を一度ストップし、居間にてゆわと向かい合う。


「大丈夫、ハナちゃんも明日になったら落ち着いてるから。一緒に謝りに行こう?」


 数秒ほど無反応だったゆわだが、そこでなぜか、首を小さく横に振った。


「おとうさん……おばあちゃんは、しんじゃうの?」


「え……」


 龍幸は絶句する。

 いつ、誰が、どうして……。様々な疑問が駆け巡る。


「ハナちゃんが……おばあちゃんはしんじゃうんだって……」


 おそらく先ほどのケンカの際に、飛び出したのだろう。しかしなぜ、ハナがその事実を知っているのか。


「しんじゃうって、なんなの? どうなるの?」


「それは……もう会えなくなるってこと、かな」


「ミライでも、ハナちゃんがしんじゃイヤだっていってたけど、もしかしてそこで、おばあちゃん、しんじゃうの?」


「……うん、たぶんそう」


 ゆわは「なんで……」と漏らす。

 そしていっそう影が濃くなった顔を龍幸から隠すように、テーブルに突っ伏した。


 その事実を前にゆわは何を思っているのか。伺い知ることのできない中で龍幸は、それでも彼女のしてきた行動を肯定する。


「……だからさ、ゆわ。ハナちゃんとおばあちゃんがお別れする前に仲直りするのは、とても大事なことなんだ。だからゆわも仲直りのお手伝いを続けよう。ね?」


 ゆわは一切の挙動も見せない。

 聞きたくないとの意思表示をしているかのように、顔を隠したままだ。


「しんだら、もうあえない……」


 ぽそっと、顔を隠す腕の隙間から独り言がこぼれた。そうして二言目には龍幸へ向け「じゃあ……」と話し出す。

 しかし、それまでだ。言葉は途切れ、ゆわは再び押し黙った。


「……お母さん?」


 龍幸の口からその単語が出ると、ゆわはすぐさま顔を上げる。待ち望んでいたかのような速度だ。


 するとどうしてか、驚きから悲哀の色へと変わっていく。


「どうしたの、ゆわ……?」


 不可解な表情の変化。

 謎が謎を呼ぶ事態に龍幸は当惑する。


 突如として、テーブルに置いたスマホが振動し、地鳴りのような音が鳴る。画面に表示されたのは「金田家」の3文字だった。


「龍幸くん、ごめんなさいね……」


 多江だと判断するのが難しいほど、その声には疲労感が表れている。


「どうかしましたか?」


 その声色から龍幸は初め、容態が急変したのかと肝を冷やした。


「実はハナにね、ゆわちゃんとのケンカについて問いただしたら、ウソついてたって白状して……ハナがひどいこと言ったせいで、ゆわちゃんが泣いちゃったんだって」


「……え?」


 おばあちゃんと仲直りしようと、ゆわがハナに言い寄りすぎたから。ゆわが語ったケンカの原因を、龍幸は少しも疑っていなかった。


「……じゃあゆわが、ハナちゃんをかばっていたってことですか……?」


 この一言ですべてを察したのだろう。

 ゆわは顔を歪ませ、目線を龍幸から逸らしていく。


 その様子が物語っていた。ゆわは「良いウソ」をついていたのだ。


 ではゆわが泣いた原因。

 ハナの言った「ひどいこと」とは。


「何でゆわちゃんにお母さんがいないか、ハナが執拗に聞いたみたい」




 ケンカに発展するまでの、ゆわとハナのやりとりはこうだ。

 ハナはゆわと遊んでいる中で不意に、なぜゆわには母親がいないのか尋ねた。ゆわは答えを濁すも、ハナはけして逃さない。何度となく聞き続けた。


 多江がいなくなると、ハナは薄々勘づいていた。きっと流子と多江の話を盗み聞きし、自分の中で噛み砕き理解したのだ。多江が「死んでしまう」という事実を。


 加えてハナは、ゆわに母親がいないことを知っていた。それが同様に「死んでしまった」からだと考えたのだろう。


 つまりハナは、ゆわと自身の境遇を、照らし合わせたかったのだ。


「ゆわちゃんのおかあさんはしんじゃったんでしょっ?だからいないんでしょっ?」


 そのショッキングな発言に、ゆわはついには感情を爆発させてしまった。

 それを見たハナも、最後には誘発される。


「おばあちゃんはしんじゃうんだっ、ハナがキライだからいなくなるんだ!」


 そうしてあの時、龍幸らが見た惨状へと繋がった。


 多江はやけに落ち着いた口調でもう一度謝罪した。そして早々に通話を切る。きっと叱り足りないと思ったのだろう。


 龍幸もまた、ゆわに聞かなければならないことがある。


「ゆわ、何でイヤなこと言われたの、お父さんに隠したの?」


 龍幸が柔和な口調で尋ねるも、ゆわは口を閉ざしたまま。


「……良いウソ、だったの?」


 ゆわはズッとすすりながら鼻水を手の甲で拭う。そして小さく頷いた。


 やはりウソの扱い方を教えるのは、まだ早かったのかもしれない。


「ゆわ。人のためにウソをつくのは良いことだって、確かに教えたけどね、それでゆわが傷つくのはダメだよ」


「……ゆわ、つよいからだいじょうぶだし」


 強いと豪語するその声は、涙で弱々しくぼやける。


「ゆわ、お父さんはくだんじゃないから、ゆわが何で辛いのか分からないんだ。言ってくれないと気づけないよ。お父さんはゆわがひとりで傷つくのはイヤなんだよ」


 何が、ゆわにここまで我慢を強いているのか。


「いくらハナちゃんをかばいたくても、ゆわがそんな苦しんでたら……」


「ちがう」


 掠れかけた声で、否定が飛んだ。


「あのいいウソは、ハナちゃんだからじゃない」


「え?」


 ハナが多江に叱られてしまうから、より関係が悪化して仲直りできなくなるから、ゆわは真実を隠していた。そう龍幸は理解していた。

 だからこそ、今の言葉の意味がまるでわからなかった。


「じゃあ、何のために……」


 ゆわは人差し指を突き立てる。

 前髪の間から覗く濡れた瞳が、龍幸を捉えた。


「……僕?何でそのウソが、お父さんのためなの……?」


 ゆわの目線がわずかに上がる。

 居間との続き間にある仏間、その奥の仏壇を見つめた。


「……いっていいのかな」


 龍幸に言ったのか、視線の先の空に言ったのか。ゆわは消え入りそうな声で呟く。


「言っていいんだよ。ゆわがお父さんに言っちゃいけないことなんて、ないよ」


「……ほんとに?」


 瞳には畏怖に似た色が、揺れるように浮かぶ。


 そしてゆわは涙をこらえながら、怯えるように、告白する。


 龍幸ら大人が、彼女の四囲に築いてしまった、あまりに大きな障害の存在を。


「……おとうさん、おかあさんのハナシするの、イヤなんでしょ……」


「え……」


「だからハナちゃんにいわれたこと、いっちゃいけないって、おもって……」


 母親の話を龍幸が嫌がっていると、ゆわはそう思っていたという。

 確かに亡くなってすぐの頃を除き、ゆわはあまり母親の話をしなくなっていた。


「おとうさんだけじゃなくて……ゴローさんとか、ようちえんのせんせいとか、オトナのヒトはみんな、ゆわがおかあさんのハナシするとっ……なんかイヤなかんじになってっ……ゆわ、それがこわくてっ……はなしちゃいけないって、わかったんだよ」


 言葉にするほどゆわの声には震えが帯び、ぽろぽろ涙が落ちていく。


 最後にゆわは、心の底に秘めていた本懐を打ち明ける。


「でもね、こんなオネガイしたらおこられるって、わかってるけどっ……」


 それは気が遠くなるほど長い間、ゆわが守り抜いてきた、たったひとつの願い。


「ほんとうはねっ……おかあさんにはもう、あえないかもしれないけど……おかあさんのハナシ、おとうさんとしたいよぉ……おかあさんを、わすれたくないよぉ……」


 それからはもう、想いのすべては哀哭に込められる。

 ゆわは正座する龍幸の脚にしがみつき、行き場のない感情を涙で放出し続けた。


 龍幸は、ある言葉を思い出していた。


「子どもって大人が思っているよりもずっと、大人の発する空気に敏感なんですよ」


 かつて桜が語っていた体験談。ゆわもその通りに、大人が形成した無意識の空気感にさらされ、人知れず傷ついてきたのだ。


 龍幸の罪は、空がいない現実を当たり前にしようとしたこと。


 父親自身が、娘に「呪い」をかけていたのだ。


 ゆわが母親を失ったのは悲劇だ。

 忘れることを許されず、なかったことにもできない、どう曲解しても吉兆にはなり得ない、決定された不幸だ。


 では人が不幸を乗り越える時は、それが当たり前になった時なのか?


 そんな訳はない。牛古市に来て、くだんと出会って、学んだはずだ。


 そこには当たり前じゃない幸福もあれば、当たり前じゃない不幸もあった。当たり前なんて言葉は、大人の欺瞞でしかなかった。


 だから空がいないことも、不幸である事実さえ、当たり前にしてはいけないのだ。


「ゆわ、ごめん……そうだよね、お母さんの話、したいよね」


 父の脚を抱えて泣き続けるゆわ。

 龍幸は覆いかぶさるように、彼女を上から包み込む。


「しよう、一緒に。お母さんの思い出、話そう」


「……いいの?」


「うん。お母さんを……いつでも思い出せるように。いっぱい話そう」


 ゆわは再び、声を上げて泣きだした。

 父の脚に顔を埋めるように、何度も頷きながら。


 その時、ふいと龍幸は思い出した。

 生前の空が、病室で言っていたセリフ。


「ゆわは、どんな私との思い出を、持っていってくれるのかしら」


 何の変哲もない、母の願いだった。

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