第39話

 牛古市立図書館にはいまだ自動貸出機が導入されていない。よって閉館15分前の貸出カウンターには毎日のように数名の列ができている。ただ今日は列がやけに長く、龍幸もヘルプで入り職員2人で対応していた。


 隣の職員のカウンターにピンク色の髪の女子高生が立つ。貸出手続きが完了した彼女はチラリと龍幸を見やると、さっさと出入り口に向かっていく。


 機嫌はあまりよろしくないらしい。


「明日でちょうど、1ヶ月後になりますよね」


 助手席に乗った桜は、シートベルトを鬱陶しそうに握りつぶしていた。


「……そうだね」


「もし多江ばあちゃんに教えるとしたら、そろそろじゃないとまずいですよね。あんまり直前に言われても……」


「うん、わかってる」


 桜は桜の白か黒かはっきりしない態度に、肯定も否定もしない。ただ眉間にシワを寄せ、執拗に頭を掻く。機嫌が悪いというよりも苦悩しているようだ。


 桜も理解している。

 これが正解・不正解という次元の命題ではないと。


「例えば、確固とした生きる目的が多江ばあちゃんにあるなら、教えた方がいいと思うんですよね。その日までに、達成してやるって気になるというか」


「そうだね。でも多江さんの話聞いた限りだと、もうそこまでの気持ちは……」


「でも、心残りはひとつあるじゃないですか」


「……ハナちゃん?」


 桜は首肯して、自分の考えをひとつひとつ確かめるように語る。


「ハナちゃんとの仲直りはどうでもいい、って発言は絶対にウソです。少なくとも、さりげなく死にたいとか、死に行く人が生きていく人のためにすべきことはない、なんて言う人が、そんなしこり残していいと思ってるはずないです」


 桜の熱弁は続く。

 多江の態度には矛盾がある、解せないと語気を強める。


 龍幸はそれを耳に入れながらも、頭の中では別の思考を展開させる。桜が言った「しこり」という単語が、妙にひっかかった。


「……呪い」


「え、何ですか?」


「あ、いや……空がね、言ってたんだ。一番イヤなのは、自分の死が誰かの呪いになることだって。それが今、桜ちゃんが言ったしこりっていうのと重なって……」


 なるほど、と桜は一度頷きながらも、苦笑いを浮かべる。


「呪いって、また怖い表現するな、空姉ちゃん」


「つまりそれだけイヤだったんだろうね、ゆわの中で辛い思い出として残るのが」


「そうですよね。死んだらもう自ら修正できないですし。でもそれがわかってるのに、なんて多江ばあちゃんはハナちゃんと仲直りしない……志河さん、青ですよ」


 後方からクラクションが鳴らされ、そこで初めて龍幸は信号が変わっていると気づいた。慌てて発進させると、助手席から「しっかりしてくださいよー」とダメ出しが飛んだ。


 また、心の中でひっかかっていた。


「ゆわは、どんな――」


 空が病室で「呪い」発言をしたすぐ後に、もうひとつ、何か印象的な言葉を口にしていたはずだ。心に留めておこうと思っていたが、いつしか消えていた。


 空が背を向け寝転んでいる、その情景ははっきり思い出せる。しかしその言葉がどうしてか思い出せない。龍幸の中で異物感が膨らんでいく。


 不意に、桜が何やら咆哮した。


「考えても仕方ない!ゆわちゃん拾ってそのまま多江ばあちゃんち行きましょ!」


「えっ、いや、何も連絡してないけど……」


「大丈夫です! いつでも来ていいって、多江ばあちゃん言ってましたし!」


 まずは幼稚園まで安全運転、と叫ぶ桜。


 思案しすぎた末の、謎のテンションである。気圧された龍幸はハンドルを強く握り、アクセルペダルは優しく踏み込んだ。




 ハナはバス通園であるため、すでに帰宅しているはず。そう告げられるとゆわは金田家の玄関を開いた途端に叫んだ。


「おじゃましまーす! ハナちゃーん!」


 まず出迎えたのは多江だ。

 ゆわは彼女にもう一度挨拶すると、二言目には疑問を投げる。


「ハナちゃんは?」


「たぶん自分の部屋じゃないかねぇ。行って遊んでやってよ」


 家主から了承を得ると、ゆわは早歩きでハナの部屋へ向かっていった。


「それで、あんたたちはまた来たの」


 龍幸と桜は茶目っ気ある態度で歓迎する。

 ただ桜の顔からにじみ出る熱い感情から多江は、何やら察したようだ。とりあえず上がりなさい、と居間へ2人を通した。


 頭を冷やせとのことなのか、多江は氷の浮かぶ麦茶を運んできた。だが桜はグラス半分まで飲んでなお、勝手にヒートアップしたままだ。


「多江ばあちゃん、なんでハナちゃんと仲直りしないの?」


「そりゃあんた、ウチの教育方針よ」


「でももう、時間ないんでしょ?」


 あまりに単刀直入な問い。

 龍幸はハラハラしながらも、桜らしい言動に感嘆さえ覚えた。対して多江は、失笑しつつ冷静に返す。


「あんたねぇ、そういうの遠回しに言えるように努めなさいよ。煙たがられるよ」


「いいし。すでに煙たがられてるし、たぶん」


 ついには多江も腹を抱えて笑い、桜の頭を強引に撫で回す。


「変な子に育ったねぇ。五郎も洋子も引き取った時には、まさかこんなのになるとは夢にも思わなかっただろう。あの時は2人とも大変そうだったわ。赤子の世話なんて慣れてないから、私にも助けを求めてきたりして……」


「そんな話はいいのっ」


 両親にまつわる思わぬ昔話に気が逸れそうになったが、なんとか踏ん張った桜。


 熱くなりすぎている彼女をひとまず抑えようと、龍幸は整然と多江に語りかける。


「り納得できないんですよ。何も残さず旅立ちたいって、多江さん言っていたじゃないですか。なのになんでハナちゃんとの小さな諍いを、解決しようとしないのか」


 桜は多江を見つめたまま、龍幸の言葉にはその通りとばかりに何度も頷く。しかし多江は、いまだその顔から余裕の表情を消さない。


「龍幸くんには前にも言ったし、たった今も言ったわ。教育方針よ」


「……もういいじゃんそんなの。ハナちゃんだって遊園地に行けなくなったのが悲しくて、多江ばあちゃんに当たっただけじゃん。なんで許せないの?」


 桜の目は、徐々に涙を思い出していく。それでも潤んだ声で続ける。


「もう会えなくなるのに、なんでそんなに厳しくあたるの……」


「私の死とハナへの教育は、別問題よ」


 ピシャリ。間髪入れずに多江は言い切った。


「前に言ったわね。死にゆく人が生きていく人のためにすべきことはないかもって。それは間違いだった。私には今、すべきことがある」


 それは、ただひたすら真摯に生きてきた女性の瞳だ。


「ハナはね、ワガママで泣き虫なの。それはここまで何かにつけて甘やかしてしまった私の責任。だから絶対、あの子がちゃんと謝るまでは、私から歩み寄らない。文字通り、死んでもしない。それがきっと、私に課せられた人生最後の義務なのよ」


 龍幸と桜は、唖然とする他なかった。何が多江をそうまでさせるのか。いくら考えてもきっと理解には至らないのだろう。


 龍幸の脳に自然と蘇ったのは、五郎や洋子が話していた、多江の生涯の話。

 これが、闘い続けてきた女性の気概なのだ。


 ふと、どこからともなく泣き声が聞こえた。真っ先に反応した多江は「ほらね」と呟く。


 大方の予想通り、ハナの部屋にて事件は起きていた。

 ハナとゆわの喚きは猫のケンカのように共鳴しあう。桜は「どうしたのー」と間に入っていった。


 ここ最近は姉妹のように仲良くなっていたゆわとハナ。一体何があったのか。


 声にならない声を上げて龍幸に抱きつくゆわに対し、ハナは「ゆわちゃんがー」と原因を明確にしながら泣いている。現場は収拾のつかない状態となっていた。


 きっかけがわからなければ叱ることさえできない。大人たちが待っていると、先に落ち着いたのはゆわだった。彼女は少しずつ話し始める。


 ゆわがしつこくハナに、おばあちゃんとお話ししよう、仲直りしようと誘ったのが原因だという。拒否し続けた末にハナは泣き出し、それに驚いたゆわの涙腺も共鳴してしまったのだろう。


 聞いてみれば何でもない、ケンカにすらなっていない珍事であった。


 大人たちが状況を理解しても、ハナは一向に泣き止まなかった。


 そんな孫の姿を、多江は呆れ果てた様子で見つめていた。

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