第38話
「いや、仲直りしてから死んだ方が良いに決まってるじゃないですか」
昨晩の涙は根元まで乾いたようで、桜は早速龍幸にダメ出しする。
ゆわが幼稚園から帰宅してすぐ金田家へ遊びにいったのを見計らい、龍幸は桜に連絡。夕刻、彼女は学校帰りにそのまま上がり込んでいた。
「死んだ方がって、言い方……」
「多江ばあちゃんも本心では、仲直りしてから死にたいに決まってるじゃないですか。ゆわちゃんはそのために、今もハナちゃんち行ってるんですよね。ゆわちゃんの方がよっぽど立派ですよ」
「……返す言葉もない」
「当たり前です。言い返しでもしたらひっぱたいてましたよ」
変わらず歯に衣は着せない人間だと前もって名状しつつ、彼女は話を進める。
「それで志河さんは今、多江ばあちゃんに告げるべきか迷ってるんですか。10月27日に、この世を去るって未来を」
龍幸が首肯すると、桜は首を傾げて口を尖らせる。
「普通、知りたくないですか? 言い方はアレですけど、ゴールを明確にしてもらった方が動きやすいと言うか……」
「うん。僕も最初はそう思ったんだけど……」
龍幸の頭に浮かぶのは、多江との車内での時間。
バックミラーに映った、多江のひどく静かな笑み。落ち着き切った口調で語られた、死への恐怖心。
「怖いわ。本当に、怖い」
その光景が、今でもふとした時に蘇る。
「……やっぱり、本当に死に直面した人じゃなきゃ、その怖さはわからないと思うんだ。もしかしたら教えたせいで、その日まで怯えて生きていくかもしれない。だから、この件は慎重に考えたいんだ」
「……確かに、そうですね。安直な考えだったかも……すみません」
桜は頭を下げる。
そしてその状態から、彼女は続ける。
「ひとつ、聞きにくいことを聞いてもいいですか?」
「うん、何?」
顔を上げると桜は、身じろぎひとつせず、まっすぐな瞳を見せた。
「空姉ちゃんは、怖がっていましたか?」
龍幸は多江と死を巡る会話をした日から幾度となく、在りし日の妻の様子を思い返していた。
彼女のふとした言葉や仕草、表情。忘れようにも忘れられない記憶ばかり。
だからこそ桜の質問に対し、思案する必要はないに等しい。
「あんまり見せないようにはしていたよ。ナイーブにはなってたけどね。何でもないことで怒ったり、しおらしくなったり。それでも、はっきり怖いとは最後まで言わなかったね」
「……らしいですね」
「うん、そうだね。でも……ただひとつ心配していたのは、自分が死んだ後のゆわのことだったよ。最後の最後まで、不安がってた」
桜は再び深くうつむくと、何度か鼻をすする。
「……そういえば、なんでゆわちゃんは未来を見て、それが多江ばあちゃんの最期だって気づいていないんですかね?」
「ゆわは空の最期を見てないからだと思う。亡くなったのは深夜だったから……」
「それは……空姉ちゃん最後に一目でも、ゆわちゃんを見たかったでしょうね」
「いや、空はこれで良いって言ってたよ。ゆわに余計な思い出を持たせたくないって。多江さんも言ってた、何も残さず旅立つ方が幸せってヤツだね」
「もーひねくれ者ばっか……死ぬんだったらワガママのひとつでも言えばいいのに」
素直すぎる意見に龍幸は笑みをこぼす。ホントだね、と小さく呟いた。
そして桜は、ポツリとこぼす。
「死に行く人が生きていく人のためにすべきことは、何もない……」
多江が口にしていた、人生のひとつの答えだ。その言葉が飲み込めず喉に詰まっているかのように、桜は言下、しばしウンウン唸る。
最後にひとつ、独り言のように疑問を呈した。
「じゃあ、残された人が旅立つ人のためにできることも、ないのかなぁ」
龍幸がゆわを迎えに金田家を訪れた頃には、もう夕日は落ちかけていた。
「すみません、ちょっと遅れちゃって」
「いえいえ。日が落ちるのも早くなってきましたね」
流子が平日のこの時間に家にいるのは珍しい。今日は多江が大きな病院へ診察に出向いているため、早上がりしたようだ。
「学校の先生って、まだまだ大変そうですね」
「そうですねぇ。子どもの数は減っていても、仕事内容は変わらないので……これからは私もさらに大変になるので、どうにかしてほしいですね」
あまりに自然な流れで、流子は弱音を吐いた。龍幸は口をつぐみ、小さく頷く。
「母から聞いたんですよね、ガンの話。いつかこんな日が来るだろうとは思っていましたけど……思っていたよりずっと早くてビックリです」
流子の顔に悲観の感情はなく、代わりに疲労の色がにじむ。すでに受け入れた、というより受け入れざるを得なかったのだろう。
「でも、志河さんがいてくれたのは救いでしたよ」
「え、何でですか?」
「親1人子1人で頑張ってる人が身近にいるのは、心強いです。ゆわちゃんも良い子に育ってますし。無理じゃないんだって、証明してくださってるわけですから」
思わぬ評価に龍幸は大いに恐縮しつつも、頑張ります、と何のてらいもない言葉を返した。
「そういえば、多江さんとハナちゃんは、その後どうですか?」
「あー……まだいがみ合ってる、というか悪化してるかもしれません。2人とも意固地になってて……変なところ似ちゃったなぁ」
「でも、早めに仲直りしないと。もしそのままってなったら……」
「私も母に再三言ってるんですけど、仲直りできなきゃできないで良いって言って聞かないんです。志河さんからも言ってやってください」
「そ、そうですね……」
「あ、おとうさんきてたー」
ハナの部屋で遊んでいたというゆわが居間にひょっこりと顔を出す。
ゆわとハナはまるで姉妹のように仲睦まじげに寄り添い、2人にしかわからないツボで笑い合っていた。
「ゆわちゃんがハナの遊び相手になってくれてるのも、本当に助かります。ただでさえ母との件で、ハナもストレス溜まってるみたいなので……」
「いやまあ、ゆわ自身も純粋に楽しんでるみたいなので」
ゆわは未来を見た日から、多江と仲直りするようハナを説得する、という目的のもと動いていた。ただ実際にどういう行動をしているのか、よくわかっていない。
現状少なくとも一見しただけでは、説得しているようには見えなかった。まさか、もうそんな目的など忘れているのではないだろうか。
「わすれてないよ!」
帰り道、ゆわは目を釣り上げた。
忘れていなかったようだ。
「ご、ごめんごめん。なんか普通に遊んでるように見えたから……」
こんな父の弁解を前に、ゆわの怒りはいっそう燃え上がる。龍幸の腕を両手で捕まえると「おらー」と叫びながらブンブン揺らした。
「きょうはハナちゃんとなかよくなろうとしてたの! まえになかなおりしようっていったら、ハナちゃんちょっとおこってたから……」
つまり今日に限っては、ハナとの距離を縮めるために行動していたとのこと。実に現実的であり現金な、幼稚園児による交渉術である。
「まあでも、たのしくてちょっとわすれてたけど」
「いや忘れてたんかい」
龍幸による制裁のくすぐりに、ゆわは「ヒィー」と悶え苦しむのだった。
家に着く直前、不意にゆわが「そういえば!」と声を上げる。
「ハナちゃんちのホットケーキがねっ、すごい、なんか、おみせのヤツみたいだった!」
「お店のヤツって、どんなの?」
「こう、おおきいっていうか……ボウシみたいなカタチのなヤツ!」
「あー、あの縦に膨らんでるヤツか。確かにお店でしか見たことないなぁ」
その後もゆわは、流子作のホットケーキがいかにすごかったか、また美味しかったか、身振り手振りを交えて鼻息荒く説明する。円柱型のソレが家で出てくるという事態がよほど衝撃的だったらしい。目の色が違った。
「だってっ、おかあさんのなんかぜんぜんっ……」
ふと、不自然なタイミングで言葉を区切る。
ゆわは口に両手を当てて、自分でもビックリといった様子で目を見開いていた。
「おかあさんのが、どうしたの?」
「いや……えっと、もっとペッタリしてたなって……それだけ」
その言葉以降、先ほどまでの興奮がウソのように、スンとした表情で押し黙る。
母親のことを思い出してしまったのか。龍幸は直感的に把握した。
母親がいないという現状はもう、ゆわの中で当たり前の日常にはなっただろう。しかしその状況を完全に受け入れられるかどうかは別だ。
「今度流子さんに教えてもらうよ。ホットケーキの作り方」
「……うん」
ゆわは龍幸の手を両手で捕まえると、片方の手で強く握り、もう片方の手で甲をさする。娘の温かな手に心をほぐされる中、龍幸はいずれ来る未来を思った。
多江が亡くなるその現場には、ハナだけでなくゆわもいる。
その光景を見てしまえば、ゆわは気づくのではないだろうか。
自分の母親も多江と同じように、二度と会えない場所へ旅立った、という事実に。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます