第37話
浴槽の半分、ぬるめの湯が張られたことを確認すると、龍幸は居間に顔を出した。
「ゆわー、お風呂できたから、入る時は言ってねー」
その報告に反応したのは2人。
ゆわの相槌の後に疑問の声を上げたのは、なぜか食事会の後についてきた大きなお友達である。
「え、ゆわちゃん1人で入るの?」
「今練習してるんだよな。小学生になる前に、1人で全部できるように」
「そっか、ゆわちゃんもう半年後には小学生だもんね。はやーっ」
桜からの称賛に、ゆわは頭どころか全身を掻くようにして悶える。
だが桜による次の一言によって、ゆわは瞬間冷却されたかのように固まった。
「でもまだお風呂行かないでねー。まだ未来の話、聞いてないから」
「え、未来の話って?」
ゆわはほとんどの動きを停止させながらも、首だけはギギギと少しずつ方向を変えて、龍幸の視線から逃れていく。
「……ゆわ、おフロいこうかな」
これ以上ないほどわかりやすく、やましい何かを秘め、逃亡を図ろうとしていた。
「え、内緒だったの? ハナちゃんの未来の話」
「なんでいうのっ?」
ゆわは桜に飛びかかって揺さぶる。
桜はといえば、こうなることを予期していたようで、非常に愉快そうであった。
未来を見たことは暴露したようだが、その内容はまだ桜に話していないようだ。
「ゆわー、また約束破ったー」
トーン低めの龍幸の声に、ゆわは身体を振動させる。瞬く間に廊下へ駆け出した。
「ナイショっていったのに、サクラちゃんのアホー! ゆわおフロはいるからね!」
「はーい、いってらっしゃーい」
「サクラちゃん!」
「なにー?」
「ゆわがひとりでおフロはいるの、どうおもうっ?」
「エラいよねー、おっとなー」
最後の言葉に「よし!」と力強く頷くと、ゆわは風呂場へ走り去っていった。
2人きりになった居間。
そのどこか居心地の悪い雰囲気に、龍幸は困惑。
このままゆわをネタに会話を繰り出すのかと思いきや、桜は口を開かない。表情にも色が見られず、彼女の感情のひとつも読み取れない。
そもそも桜はなぜ、食事会の後も志河家についてきたのか。
不気味にさえ感じ始めた龍幸が話しかけようとしたその時、桜は開口した。
「なんでゆわちゃんが見たハナちゃんの未来、私に内緒にしたんですか?」
「えっと、それは……」
桜もまた、多江に懐いている。
だからこそ多江の死を桜に告げていいものか、龍幸は悩んでいた。ゆわに内緒にさせたのは、一旦「保留」にしたかったからだ。
「当てましょうか?」
「え……」
桜は表情を動かさないまま、アンドロイドのように口だけ動かし始めた。
のちに龍幸は気づく。その時彼女は、不安を表に出さぬよう、必死にこらえていたのだ。
「多江ばあちゃんに、何かあるんですか?」
「……なんでそう思うの?」
「何となくですよ。ハナちゃんが泣くようなネガティブな未来。でもゆわちゃんがあまり理解してない様子。そして顔色悪い志河さんの、多江ばあちゃんの話題の時に見せていたぎこちない表情。わざわざ私に内緒にする謎。選択肢は絞られますよね」
そしてその口調から、桜の中にあるわずかな憤りも感じ取れた。
「志河さん。胃痛起こすくらい考え込むなら、私にも共有させてくださいよ。くだんのこと相談できる、唯一の存在じゃないですか。私、そんなに頼りないですか?」
「……ごめん」
鋭い眼光が龍幸を突き刺す。
一切の気遣いも妥協も許さない、強い人間の目だ。
どうして自分の周りには、気高き女性ばかりいるのだろう。まるで自分の弱さを浮き彫りにされるようで、時折気恥ずかしくなる。
「ゆわに聞かれないよう、手短に話すよ」
龍幸は、ゆわの見た未来のすべてを桜へ伝えた。桜は龍幸に悟られないよう、凪のような表情で聞き入る。
それでも彼女の中にあった最悪の予想が現実の未来と重なった時、顔は歪んでいく。桜の感情を抑えていた栓は一筋の涙によっていとも簡単に抜け、あとはもう嗚咽を漏らして泣き続けた。
きっと覚悟はできていたのだ。
それでも最後まで、信じていたのだ。
多江の未来に待つ問題が、転んだとかスネを打ったとか、そんな取るに足らない事態であることを。
しかし未来は叫びたくなるほどに、優しくなかった。
ふと、浴場の扉が開く音が聞こえた。桜は過剰に反応する。
「あーやばいやばいっ……止まれ、止まれっ……」
悪あがきしたものの最後には諦め、ゆわが戻って来る前に立ち上がる。
「頭冷やしてっ……帰ります。明日、時間くださいっ……」
「うん。帰ったら連絡してね」
そうして桜は家から飛び出していった。10秒もしないうちに、髪を濡らしたパジャマ姿のゆわが居間に顔を出す。
「あれ、サクラちゃんかえった?」
「うん、たった今帰ったよ」
「……ゆわがおこったから?」
「違うよ。でも、次会ったらちゃんと謝ろうね。ほら、ドライヤー持ってきて」
言われた通りゆわは洗面所へ向かう。
龍幸は一度ティッシュで鼻をかむと、ヘアセットの準備を始めた。
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