プロローグ③

「さてゆわちゃん、何して遊ぼうか。でもこの辺、何にもないんだよねー」


「サクラちゃんがいればいい」


「えっ、告られた」


 桜が来てから引っ越し作業はよりスムーズに進み、日没前にはカタがついた。


 その夜、ゆわと龍幸は五郎の家に招待される。

 どこからか漂う線香の香り、乱雑に重ねられた新聞やチラシ、テレビ台にはコードがぐるぐるに絡まる一世代前のゲーム機。

「散らかってるけど」と招かれた居間の生活感に、父娘は緊張をほぐされる。


「桜ー、できたからテーブルの上片づけてー」


 台所から聞こえてきた女性の声に、桜は「へーい」と従う。


 テーブルには唐揚げやポテトなど、おおよそ子どもの喜びそうな料理が並ぶ。

 最後にいなり寿司の山が載った皿を持ち、五郎の妻、洋子が台所から出てきた。


「ゆわちゃん、どんどん食べてねー。おかわりもいっぱいあるから」


「ありがとう! だれかのたんじょうび?」


 何やら勘違いしていたらしい。その質問に皿を並べていた桜が吹き出す。


「違うよー。ゆわちゃんの歓迎会だよ」


 思いもよらなかったのか、ゆわはキョトンとし、桜らを見比べる。

「えーっ」と両手をあげると、全身で喜びを表現するのだった。


「おとうさん、かんげいかいだって!」


「嬉しいね。ちゃんとお礼言わなきゃ」


「うんっ、ありがとう! ゆわのために!」


 ゆわは料理をひとつひとつ指差すと、納得するように何度も頷く。


「だからゆわのすきなものばっかりなのかー」


「そうだよ。おばさん、ゆわちゃんのために作ったんだからいっぱい食べてね」 


 洋子は五郎に支えられながら、ゆっくりと、腰とお腹に気を遣うように座った。

 その様子を見て表情を落ち着かせるゆわ。その瞳は、洋子の膨らんだお腹に向く。


「あかちゃん、げんき?」


 ゆわの質問に、洋子の顔がほころんだ。


「うん、ちょー元気。あと3ヶ月くらいでこんにちはできるよ」


「この中に私の弟が入ってるんだって。すごいよね、ゆわちゃん」


「髪ピンクだったらどうしようかしらね」


 ゆわはよくわかっていないようで、桜や洋子の言葉に浅く頷くだけだ。

 洋子のお腹には今、小さな命が宿っている。そのためか龍幸が以前訪れた際にはなかった、出産マニュアルなる冊子やベビー用品がそこかしこに置いてある。


 とある家族の築き上げてきた歴史と、すぐそこにある未来への希望。

 その2つが混在する居間は、どこを切り取っても幸せばかり。

 そんな雰囲気が龍幸に覚えさせたのは、懐かしさか、痛みか。


 家から出ると、濃い闇がゆわと龍幸を出迎えた。

 月と星と街灯以外のすべてを墨汁で塗り潰したような世界。

 この町が二人に見せる初めての夜の顔だ。


 晴れやかだったゆわの顔には怯えの色が滲む。

 心地のいい春の夜気よりも、森閑とした静けさが彼女の心を黒く埋め尽くす。


「おとうさん、おんぶ」


「えー、でもお父さん疲れてて……」


「おんぶ!」


 有無を言わせない。ゆわは龍幸の背中に顔をうずめ、夜から目をそらす。


「ゆわ、怖いの?」


「こわくない!」


「じゃあお空見てみなよ。星がきれいだよ。東京よりもずっとよく見えて……」


「みない!」


 今ここにある夜への印象は、父と娘でまるで対照的となっていた。

 天然の肝試しと化した帰り道もあとわずか。そこでゆわがポツリと尋ねる。


「ゆわ、ずっとここにすむの?」


「うん。いや?」


 ゆわは顔を龍幸の背中に擦りつけるように、首を横に振る。


「サクラちゃんいるし。いえおおきいし。そときれいだし」


「じゃあ……」


「でも、おかあさん……」


 龍幸の足が止まる。


「おかあさん、ゆわたちがひっこしたことしってるかな?」


 心配そうに口にしたのは、子どもらしく健気で純粋、そして不毛な不安だ。

 ざあっと雑木林が風で揺れると、ゆわは短い悲鳴を上げ、より力強く抱きつく。

 拍車のかかった身体の震えは、龍幸にも伝わっていく。


「知ってるよ。だってお父さんが教えたから」


「ほんとっ? よかったー」


 安堵の笑みを見せると、ゆわは弾むように身体を揺らしだす。

 そうして何やらCMソングを口ずさむほど、あっという間に上機嫌となる。

 

 まるでオセロのように、父娘の感情は裏返った。

 

 家に着いてゆわが真っ先に向かったのは、仏間だ。

 小戸棚の上に設置された、ナチュラル色の小さな仏壇の前で手を合わせる。


「おかあさん! ゆわ、うしこしにいるからね!」


 ゆわは遺影を前に「会いたい」など願望を言う訳でもなく、ただ事実を告げる。

 それが彼女のルーティン。

 そこで話すことはお母さんに伝わると、そんな嘘を信じ続けている。


「おとうさん、ゆわまた、おかあさんにあえるんだよね?」


「……うん。ずーっとずーっと未来のことだけどね」


 そうして志河父娘の、牛古市での最初の一日は更けていく。


「おとうさん。やっぱりゆわ、このいえきたことあるかも」


「え、なんで?」


「おとうさんがここにあしぶつけて、いでーーーっていってるの、おもいだした」


「いや、おとうさんそんな覚えないけど……」


 2人にとっての不思議な体験の数々。その予兆は、すでに訪れていた。

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