3章
第30話
「死んだらそこで終了。魂も、願いも、感情も、何も残らない」
病室のベットで涅槃像のように横たわり、朗々と語る妻の空。その姿があまりにも印象的で、今でもふいと思い出す時がある。
「だから残された人は最低限の思い出だけ持って、あとは忘れて自由に生きればいい。私のためにどうこうなんて、考えなくていいの」
「……それは、寂しいよ」
龍幸はスネた声色で反論。
空はいつものように夫の頭を撫で回した。
「寂しがられたって、私は死んだら喜ぶことも怒ることもできないんだよ」
「冷たいよ」
「冷たいくらいがちょうどいいの、去りゆく人間には」
「理不尽だ」
「人生は理不尽だよ」
まるでダダっ子と母親のよう。
龍幸の苦笑いに、空も笑みを浮かべる。
「……私が一番、イヤなのはね」
痩せた頰にまつ毛の影が映る。
表情から読み取られるのを嫌った空は、窓へ顔を向けた。
清々とした青空のみ見せる外の景色は、木枯らしの冷たさも教えてくれない。
「私の死が、誰かの呪いになってしまうこと」
ゆわが熱を出したのは9月中頃のこと。
夜中の気温が落ち始め、注意せねばと意識した矢先、ゆわは布団を蹴ってあまりに無防備な状態で一晩過ごしていた。結果として翌朝には咳き込み出した。
診療所の待合室でのゆわは、寡黙。
それは体調不良だからではなかった。
「チュウシャ、あるかな」
「どうだろう。あるかもね」
「うーん、でもゆわはいいかな」
「いや、それはお医者さんが決めることだから」
「ゆわチュウシャすると、ないちゃうからさ。ゆわがないたら、こまるでしょ」
新しいタイプの脅迫である。
周囲の人たちはこんな父娘のやり取りを微笑ましそうに見ていた。ただ当事者2人の会話には、徐々に熱が帯び始める。
「注射しないせいで、もっと病気悪くなったらどうするの?」
「わるくなってもいいしっ」
いよいよ親子喧嘩の領域に足を踏み込みかけた、その時だ。
「いい加減にしなさい、ゆわちゃん」
けして大きくはないが、凛と通る声が背後からかけられた。
背筋をピンと伸ばした短髪グレイヘアの女性が、ゆわに鋭い視線を送っている。
「金田さん」
金田多江。志河家の近所に住む御年七八歳の老婦である。
父娘が気づかぬうちに後ろの長椅子につき、話を聞いていたようだ。多江は整然とした声色で、ゆわに語りかける。
「悪くなってもいいなんて、そんなこと言ってはいけないよ。本当にひどい病気になったらどうするの」
お叱りの内容よりも、父以外に怒られているという事実に驚いているゆわは、目を皿のようにしながらカクカクと頷く。
多江は最後には優しく微笑み、「わかったならいい」と頭を撫でる。龍幸の申し訳なさそうな会釈には、手で軽く応じていた。
診察の結果、軽い症状であるため薬で様子を見ることに。
恐れていた注射はなく、ゆわは診察室から出ると途端に安堵の伸びをする。そして流れるような足取りで、多江の横に座った。
「お疲れ様。注射はなかった?」
「なかった!」
ゆわは風邪をひいているのがウソのように、多江との会話に花を咲かせる。
人見知りする方のゆわだが、多江とは会うたび愉快そうに話している。多江の気さくさもあるが、ゆわには祖父母に甘えた経験がほぼなく、この年代の人との会話が新鮮なのだろう。
「おばあちゃんはチュウシャこわくないの?」
「怖いに決まってるでしょう。だって痛いじゃない」
ゆわは「わかるー」と深く頷いたのち、告げる。
「だいじょうぶ! おばあちゃんもきょうはチュウシャないよ!」
「あら、なんで分かるの?」
「そんなきがする!」
無邪気に無責任な発言。
多江は目尻に深いシワを作って笑う。
「そんなことがわかるなんて、もしかしてゆわちゃんはくだんの子なのかな?」
ゆわと龍幸は一時、呼吸を忘れた。
不自然な間を経て、ゆわが言い放つ。
「そうだよ!」
どこまでも正直な回答。
龍幸はまた別の意味で呼吸を忘れた。
初めはキョトンとした多江だが、次の瞬間には薄い笑いを浮かべる。
そこへ、多江を呼ぶアナウンスが響く。
「それじゃあゆわちゃん、またね」
診察室へ向かう多江の背中を、父娘はしばらく呆然と見つめていた。
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