第29話

 志河家の車にて。

 龍幸と桜の会話は続く。


「五郎さんとはその後どう? ちゃんと話できた?」


「そりゃ濃厚な家族会議に発展しましたよ。私が秘密を知った理由も、私の本当の父親……お父さんの親友っていう人の話も。ひとまず互いに飲み込みました」


「引っかかる言い方だなぁ。まだ何か不安なことがあるの?」


「何というか、ここはゴールでなく、スタートなんだろうなと思っているのです」


 その時桜は、自分でも驚くほど自然と本音を打ち明けた。


「あの日、ウチは凄まじい変化を遂げた訳じゃないですか。笑太が生まれて、すべて打ち明けて。そこまで変わったら、何か弊害が出そうなもんじゃないですか。何というか、何が起きるかも分からない怖さってあるよねって、話です」


 抽象的な話だったが、龍幸は何度も頷いていた。しかし明確な助言は出ない。


 そうこうしているうちに牧家に到着してしまった。


「まあ、その時になったらまた頼りますよ」


 車から出る直前、こう告げられると、龍幸は情けなさそうに笑った。


 生肉もあるので早急に運ばなければと、桜が助手席から出ようとしたその時だ。


 突然家から飛び出してきたのは、ゆわだった。何やら後部座席に乗り込んでくる。


「どうしたどうした、ゆわちゃん」


「卵あるから袋の上座らないでね、ゆわ」


 安穏と迎える龍幸と桜とは対照的に、ゆわは何やら真剣な面持ちである。


「あのね、いおうかかんがえてたことがあったんだ」


 舌足らずな口調ながら、興味をそそる導入である。


「ゆわ、ミライみた」


「え……いつ、誰の未来を見たの、ゆわ」


「びょういんで、ショウタくんがうまれてすぐに……ゴローさんの」


「五郎さん? どんな未来だったの?」


 龍幸が尋ねると、ゆわはその景色を一生懸命言葉にし始めた。


「あのね、たぶんけっこうミライのことなんだけど、すごくひろくて、ちょっとくらいんだけどロウソクがいっぱいあってね。ゴローさんがないてるんだけど、ゴローさんのまえにサクラちゃんがなにかよんでて、サクラちゃんおひめさまみたいなドレスきててね、キレイだったよ。すごい、ユメみたいだった」


 桜はぽかんと口を開け、そのくせ言葉は見つからなかった。


「それって……」と龍幸は絶句し、桜の顔色を伺う。ゆわは目を泳がせながら、桜の反応を待っていた。


 桜は優しく問いかける。


「……その時、私が何て言ってたか分かる?」


 そして、小さな予言者は告げる。


 不思議なことにその時、桜の頭には、その瞬間の光景が鮮明に浮かんだ。


「笑太が生まれたあの日から、私はあのウソを、愛せるようになりました」


 一生の不覚と、桜は後悔する。

 またも二人の前で目を潤ませてしまった。


「文字通り結果論だけど……いらぬ心配だったみたいだね」


 龍幸はたった一言、そんな感想を漏らす。桜は頷き、そして答えた。


「未来の私がそう言えているなら……きっと大丈夫なんでしょうね」


 意地と虚構で自らを覆ってきた桜。

 しかしこればかりは、心から出た言葉だった。


「また随分遠い未来を見たね、しかし」


 龍幸はしみじみ呟く。

 この物言いに黙っている桜ではない。


「いやいや志河さん、ナチュラルに失礼なこと言ってくれちゃって。そんな遠くないかもしれないじゃないですか」


「え、じゃあ思い当たる相手いるの?」


「これから帳尻合わせていくんでしょ。突然始まるかもしれないでしょ、ナニが」


「ゆわ、どうやってゴローさんたすければいいのかな」


 不意に話に入ってきたゆわ。

 2人はその言葉をすぐ理解する。


 ゆわの中ではまだ、涙を流す行為はすべて不幸という認識なのだ。


「ゆわ。あのね、実はね……」


 龍幸が、どっしりと威厳のある声色で告げる。


「この世界には、悲しくなくても流れる、嬉しい涙もあります」


「わぁ抽象的」


 桜は思わず突っ込む。

 ゆわもこれには納得できないらしい。


「かなしくないのになくの? なにそれわかんないっ、セカイってヘンだよ!」


 すごい結論に行き着くのだった。


「心配しなくていいよ、ゆわちゃん。未来のゴローサンは、嬉しいのか悲しいのかは分からないけど、とりあえず幸せではあるだろうからさ」


「シアワセなの? じゃあ、ゆわゴローさんたすけなくていいの?」


「うん、大丈夫。でも教えてくれてありがとうね」


 そう言ってキューティクル輝く黒髪を撫でる。ゆわはまだまだ把握できていないようで、口を尖らせていた。


「それにしても……ネタバレの多い人生だ」


 そこで桜は、大事なことを聞き忘れていたことに気づく。


「ゆわちゃん、未来の私の隣に、男の人いたでしょ。それ誰かわかる?」


「えっ、それ聞くのっ? すごい勇気……」


「こうなりゃ五十歩百歩ですよ志河さん。攻略本片手に人生プレイしてやらぁ」


 しかしゆわの答えは、芳しいものではなかった。


「うーん……なんかずっとないてて、カオをハンカチでかくしててみえなかった」


「なんだそりゃ。つまんないにゃー」


 桜はゆわの顔をこねくり回す。

 龍幸は安心したらしく、大きなため息をついた。


「さすがに知らない方がいいよ。人生の楽しみひとつ損しちゃうよ」


「そういうもんですかねぇ。まあでも、ひとつわかったのは……」


「サクラちゃんのて、いいにおいー。ゆわこのにおいすきー」


 桜の手のひらの中で蹂躙されているゆわ。その顔がふにゃりと緩む。そういえばと、桜は先程まで握っていた犬のぬいぐるみを一瞥した。


「良い匂いだよね。私もこの匂い、好きかもしれない」


 ひとつだけ、わかったこと。


 私の未来の旦那様は、他人の家の事情でも、自分のことのように涙する人なのでしょうね。


      


 これはゆわから五郎の未来の話を聞いて、少し経ってから気づいたこと。


 当時の龍幸は驚きのあまり、考えに至らなかった。何しろそこまで遠い未来を見れるとは思ってもみなかったからだ。


 正確な年数は分からないが、大人になった桜を見たからだろう、ゆわの「けっこうミライ」というセリフが、近い将来でないことを証明している。


 くだんの能力については、まだまだわからないことが多い。しかしそれよりも気がかりなゆわの言動があった。


 それよりさらに前、笑太が生まれたその日。病院の待合室での会話だ。


「ゆわ、おかあさんのことなんだけど……」


「まって」


 突如として眼前に掲げられる、小さな手のひら。


「ゆわいま、すごいむずかしいコトかんがえてるから」


「……そうなんだ。すごいな、ゆわは。答え出そう?」


「わかんない」


「そっか。じゃあ答え出たら、お父さんにも教えてな」


 ゆわは大きく頷くと、再び思考の海に潜っていく。


 しかしながらその答えは、ついぞ示されることはなかった。今考えれば、直前に見た五郎の未来に関わっているのは明白だろう。


 では、ゆわの考える「難しいこと」とは何か。


 何故、まだ龍幸には教えないのか。


 その遠い未来の景色に、お母さんの姿がなかったからだ。

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