第28話

 赤ちゃんを前に五郎と桜は歓喜のため息をつく。抱いた五郎は「すごいなぁ」と連呼し続け、ぐったりしている洋子に「それしか言えないのか」と突っ込まれていた。


 洋子は分娩室の外から見つめている龍幸とゆわを見つけると「なんでそんなところにいるの」と手招きする。


 異様な雰囲気にドギマギとしているゆわは、近くで赤ちゃんを見ると途端に「わぁ……」と感嘆の声を漏らした。そして洋子のへこんだお腹と赤ちゃんを交互に見て、言い放つ。


「すごいね! てじなみたいだね!」


 その感想には、看護師らも含めその場にいたすべての人間が破顔した。


「ほんとにヨウコさんのおなかにはいっていたのか……」


「そうだよ。違うと思ってたの?」


「またおとうさんが、ゆわにウソついてるのかとおもってた」


 思わぬタイミングで飛んできた皮肉。桜はニヤリと笑うのだった。


 その後五郎と桜は洋子に付き添い、別室へ入っていった。


「じゃあ待ってる間、甘いものでも食べようか……ゆわ?」


 ゆわは反応せず、3人の背中をぼーっと見つめている。5歳児にとってこの場で見たものはあまりに衝撃的だったのだろう。


 待合室に戻って幾ばくか。ゆわは黙々とアイスを食べていて、いまだ上の空であるように見える。


「おとうさん。ヒトってみんな、あんなふうにうまれるの?」


「そうだよ。お父さんも桜ちゃんもゆわも。みんな母さんのお腹から出てきたんだ」


 ゆわは「ふーん」と応え、アイスを一口かじる。そして微笑みを湛えて一言。


「すごいね。おかあさん、がんばったんだね」


「……うん。すっごい、頑張ってたよ」


 他の誰の姿も見られない待合室。

 消毒液の香りが漂い、時間は静かに流れる。


 龍幸はひとつ深呼吸をし、ゆわへ語りかける。


「ゆわ、おかあさんのことなんだけど……」




「お母さんさー、出産初めてだったんだよね」


 洋子が新たな家族・笑太と共に家へ帰ってきた日、夕食作りに集中する父を尻目に桜は尋ねる。洋子は笑太の頭を撫でながら、ぶっきらぼうに肯定した。


「でもさ、落ち着いてたじゃん。初産って大変なんでしょ。大丈夫だったの?」


「大丈夫な訳ないでしょ。叫び出しそうだったわ。いやむしろ叫んでやったわ、あんたらいない時。家の周り田んぼだらけで良かったって初めて思ったわ」


「……スンマセン」


 桜が深々と土下座をすると、洋子はその後頭部に強めの手刀を繰り出す。


「いやでも母上……しんどいならしんどいって言ってくれれば……」


「初産って感じを出したら、あんたが怪しむでしょ。2人目のはずなのにって」


 不意を突かれた。

 母の優しさと自身の愚かさに、桜は目頭を熱くさせる。


「だってのにあんたはいつの間にか全部知ってるし。ムカつくわ、あんたとクソババア。もう二度とあの美容院行かない」


 そう言ってケタケタ笑う洋子。


 敵わないなぁ。桜は心底痛感するのだった。




 他人の家の車に乗った時に感じる違和感の大部分は、匂いにある。桜はそんな持論を携えていた。


 洋子の好みから牧家の車にはバニラの香りが充満している。それが脳に染み込んでいるからだろう、他人の家の車などに乗ると、たとえ無臭であっても居心地の悪さを感じてしまう。まるで、自分自身が異物になったかのように。


 そんなことをふと思ったのは、志河家の車に広がる柑橘系の香りが、ダッシュボードに座る犬のぬいぐるみから発せられていると気づいた時だった。


「こいつかーこの匂いの発生源はー」


 桜がオレンジ色の犬を掴むと、運転する龍幸は「この匂いイヤ?」と心配する。


「いや良い匂いですよ。やけに可愛いの乗せてるなーって思ってたんです」


「ああ、このオレンジ色が車に合うって、ゆわが言ったんだよ」


「へー。前から思ってましたけど、ゆわちゃんって色彩センスありますよね」


「そうなんだよ。絵とか他の子と比べても、結構上手い気がするんだよねー」


 ゆわを褒めると露骨にテンションが上がる龍幸である。


「洋子さん、何作るのかな」


 龍幸は後部座席の、中身がパンパンに詰まったスーパー袋をチラ見する。日曜日の昼下がりとあって、店は大混雑だった。


「内容からして唐揚げとローストビーフと、あとポテトサラダも作るでしょうね」


「産後1週間くらいなのに、悪いなぁ」


「大丈夫ですよ。ストレス解消だって言ってましたし。昨日はりきって夕飯作ってた父の手際の悪さと微妙な味のせいで、逆にストレスになったらしいです。ウケるー」


「相変わらず、五郎さんへの当たり強いなぁ」


「父と娘ってこんなもんですよ。これが志河さんの大好きな普通ってヤツですよ」


 皮肉のつもりが、龍幸は爽やかに笑うだけ。むしろイラついた桜は追撃する。


「志河さんとゆわちゃんとの関係も、いつかこうなるんですよ」


「……それは、言わないでほしかったなぁ……」


「うわっ、めちゃめちゃ効いてる」


 ダメだ。この人は娘を引き合いに出して精神攻撃してはいけない人だ。


「現にさっきも、ゆわにフラれたしね」


 お使いに出る際、龍幸はゆわちゃんも誘ったがきっぱり断られていた。理由は明快。ゆわは笑太にゾッコンで、一時も離れたくないようだ。


「あれくらいの歳の女の子って赤ちゃん好きですからね。志河さんからすれば、ゆわちゃんに拒絶される練習になって良いじゃないですか」


「……なんか僕への当たりも強くなってない?」


「そりゃアレです。志河さんだってこの前、私にめちゃくちゃキレたじゃないですか。怒り慣れてないせいで、声裏返ってましたけどね」


「あれはまぁ……うん。自分でも若干引いてるよ」


「いやいいんですよ別に。でも志河さんって、そこまで他人のあれこれに介入してくるタイプじゃないって思っていたので、驚きました」


「そうね、僕もそう思ってたんだけど……だって2人共、気を遣い合ってるせいで絶妙にズレてたじゃん。それがもどかしくて……介入すべき時はしなきゃダメだね」


 龍幸はその後もブツブツと、愚痴のような反省のような言葉を垂れ流す。


 今回最も気を揉んでいたのは、この人だったのかも。桜はほくそ笑んだ。

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