第27話

 牧家の居間に駆け込むと、洋子は額から滝のような汗を流し、うずくまっていた。五郎と桜は「息子が出る!」「弟が出る!」と大慌てである。


「と、とりあえず五郎さん、車で送るので荷物の準備を……」


「え、え、救急車は……」


「ウチから送った方が早いでしょ! いいから準備して!」


 言われるがまま五郎は駆け回る。

 その間に龍幸は、小声でゆわに問いかけた。


「ゆわが見た未来って、コレ?」


「え、うん。コレ」


「でも時間、まだ1時だよ?」


 壁にかかっている時計は1時5分を指す。ゆわは目を回しながら答えた。


「え、だって、とけいのイチは、ゴなんでしょ?」


 意味が分からず、思考停止する龍幸。

 もう一度時計を確認して、気づいた。


 長針と短針がキレイに重なり、あたかも1本しか無いように見える時計。両者が指す数字は「1」。そして思い出される、先日の龍幸の中途半端な教え。


「えーっと、長い針は1で5分、2で10分になって……」


 くだんの子痛恨のミス、というよりくだんの父の手落ちであった。


「ゆわ……帰ったらちゃんと、時計の勉強しようね……」


 見るも明らかに極限状態の五郎は、滑り込むように居間へ戻ってきた。


「財布と保険証と母子手帳と……あと何だっけ!」


 洋子は「落ち着いて、まず落ち着いて……」とかすれた声で囁くも、桜が遮る。


「着替えとか下着とか……あと何だっ? 私の生徒手帳とかいるのかなっ?」


 桜もまた大いにテンパっていた。


 どうやらこの中で一番冷静なのは僕だ。

 龍幸が立ち上がり声を張ろうとした、その時。


「落ち着けって言ってんだこのバカどもーーーッ!」


 怒鳴り上げた洋子。

 目を血走らせながら、鬼気迫る形相で五郎と桜を睨む。その瞬間に2人、そして龍幸とゆわもビシッと背筋が伸びる。


「あんたらホント何なの! こっちはクソしんどいってのに勝手にピリピリして家の空気悪くして家出して……そんでいざって時に役立たないって、どんだけ使えねえの! 何を臨月の妊婦に気を遣わしてんだよ、この甲斐性なしとピンク頭!」


 陣痛の痛みか精神的なものか、洋子は涙ながらに叫ぶ。


「アンタは印鑑とショーツとメガネ持ってきて! 着替えとかアメニティは病院に用意されてるからいい! 桜は飲み物と甘いもの! 龍幸くんは車のエンジンかけて冷房ガンガン! ゆわちゃんはここで私とおしゃべり! はい行く!」


 号令とともに、五郎と桜と龍幸の3人は四方八方に散る。


 明確な指示のおかげでその後あっという間に準備は済み、洋子は五郎と桜に支えられて牧家のセダンに乗車する。そして龍幸の運転で病院へ向かった。


 助手席に座った五郎はずっと後ろを向き、洋子へ励ましの言葉をかける。しかし後部座席で桜とゆわに挟まれている当の彼女は苦しそうにしながらも、到着するまで延々五郎と桜への愚痴を吐き続けていた。


 救急入り口の前につけると、待機していた看護師たちによってストレッチャーで運ばれていく。五郎と桜もそれに続いていった。


 遅れて龍幸とゆわが到着すると、五郎と桜は待合室のソファの両端に座り、切迫した様子で迎えた。立ち会うものかと思っていたが、洋子に追い返されたらしい。


 分娩室からは洋子のものだろう、苦痛の声が聞こえてくる。その度に五郎と桜は体を震え上がらせていた。


「あかちゃん、うまれるの?」


 とてつもなく今更な質問がゆわから飛ぶ。

 肯定すると、彼女は無邪気な解釈を口にした。


「じゃあもうサクラちゃんとゴローさん、なかなおりできるね?」


「えっ、ちょっとゆわっ……」


「あかちゃんうまれたらぜんぶカイケツって、おとうさんいって……」


 龍幸はつい口を塞ぐという強硬手段に出る。ゆわ不満げにフガフガ言っていた。


 桜と五郎はというと、緊迫した様子から気まずそうな苦笑に変わっていた。ただそこで真っ先に動いたのは、桜だ。ゆわを一瞥すると、小さく頷く。


「……言いすぎた。あの時言ったこと全部、本当は思ってないから」


 すると五郎も、ゆっくりと語りだす。


「……話さなきゃいけないことは山程あるけど、とりあえずこれだけは言っておく。僕はおまえとの時間のすべて、ウソだと思ったことはない。義理ってことも忘れるくらい、本当にただの親父になっていたよ」


 その吐露に対し、桜は実に彼女らしく「ふっ」と鼻で笑っていた。そして桜はもうひとつ、捨て台詞のように言い放つ。


「言っておくけど、本当のことを知る前から私の性格は変だからね。ピンク頭になるほどに。この色に染めようと思ったのだって、秘密知る前だから。そこ勘違いしないでね」


 その「優しいウソ」に、五郎もまた鼻で笑っていた。 


 2分にも満たない会話だが、それを経てこの父娘を取り巻く雰囲気は変貌した。


 2人の顔の造形は、お世辞にも似ているとは言えない。しかし今見せている笑い方は、実にそっくりであった。龍幸の視界が歪むほどに。


「えっ、なんで泣いてるの志河さん」


 龍幸はタイミング悪く、指で涙をすくい取っているところを桜に見られてしまった。彼女の指摘に五郎、そしてゆわもみんな揃ってギョッとする。


「いやっ……別に、そういうのじゃないから。気にしないで……」


「おとうさんはね、ほんとはけっこうなくんだよ」


「えっ、いやそんなことないだろ、ゆわ……」


 情けない龍幸の姿を見て、五郎と桜は大口を開けて笑う。緊迫感で覆われていたこの待合室は、いつしか何の屈託もない笑い声に包まれていた。


 ふと、細く不安定ながら、高らかな叫びが届く。


 それに気づいたゆわ以外の3人は、目を見開いて顔を見合わせる。その時は、あっけなく訪れた。


 待ち望んだ新たな生命は、父と姉が呑気に笑うその瞬間に誕生したのだった。

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