第26話

 そこには顔を青ざめさせる、五郎がいた。


 虚ろな瞳は桜を見つめ、言葉も出ない様子でカカシのように立ち尽くす。足元には龍幸への侘びの品だろうか、小さな酒瓶の破片が散らばっていた。


 一瞬にして乾いた喉から、かすれた声で龍幸は呼びかける。数秒は無反応だった五郎だが、ふいに踵を返すと、おぼつかない足取りで去っていった。


 なぜ窓を開けっ放しでこんな話をしていたのか。なぜ迎えに来ると想定できなったのか。遠くなる背中を見て、龍幸は深く跡がつくほどに強く、下唇を噛んでいた。


 桜は、悲しいというより気まずそうな顔をする。思いがけず彼女の願った通り、二人の間に秘密はなくなった。だがそこに喜びを感じてはいないようだ。


 ゆわはそんな桜を見つめながら、龍幸のシャツの裾を握っている。


「……娘に裏をかかれたってだけで、あんなにショック受けるもんですかねぇ」


 それは本心からの疑問か、強がりか。桜はぎこちなく笑う。


「桜ちゃん、今すぐ謝ってきな」


 桜は即座に拒絶する。


「いやそんな乙女じゃないんだから……少し考えりゃ父親も、暴露する手間が省けたって飲み込めますって。そしたらすべて丸く収まるじゃないですか」


「今の五郎さんの顔、そんな軽いものに見えた?」


「いやそりゃ驚きなのは驚きでしょうけど……でも普通あんなびっくりします? もしかして図星だったとか? 私が子育ての練習台ってのが……」


「そんな訳ないだろッ!」


 龍幸の荒ぶる声に、桜だけでなくゆわもビクッと肩をこわばらせる。


「何でいつもは勘が良いのに、こんなことも分からないんだよ……」


「……何が……」


「血が繋がってないこと、五郎さんが秘密にしてきたのは……桜ちゃんに気を遣ってほしくないからなんだよ」


「え……」と桜から低く小さな声が漏れる。


「本当の親じゃないって桜ちゃんが知ったら、あらゆることで気を遣うだろ。お金のこととか将来のこと。負い目を感じて本心を隠そうとするだろ。五郎さんたちはそれがイヤだから、普通の家と変わらない普通の女の子として生きてほしいから、大人になるまで秘密にしてたんだよ。説明が面倒とかグレるのが怖いとか考えてもないし、子育ての練習台だなんて、そんなこと考えながら一緒に暮らしてる人間がどこの世界にいるんだよ」


 目を見開く桜。

 その潤みはより顕著になり、下まつげが湿り気を帯びていく。


「五郎さんは酔う度に言ってるよ。親っていうのは、親になった瞬間から子どもの幸せしか考えられなくなる生き物なんだって。しつこいくらい何度も、何度も……」


 そこで龍幸の言葉が尽きる。

 部屋は再び静まり返った。


 ふと、指に何かが当たる。

 ゆわが龍幸にティッシュ箱を差し出していた。顔を拭うと、娘の手が父の手にチョンと触れる。捕まえて握ると、彼女はスンと鼻をすすった。


 桜もそこで初めてその目から、一粒の涙を落とす。そうしてまた、自虐的に笑う。


「本当のお父さんじゃないくせに……」


 言下、ゆわが「あっ」と声を発する。それに連動し、龍幸と桜も気づく。


 ゆわの見た未来の光景は、今この瞬間に作り出された。


「……なんか、見事にしてやられた気分です。こういうことですか」


 桜は二の腕で何度も目をこすりながら笑う。


 くだんは、不幸ではない涙を予知していたのだ。


「サクラちゃん、ゴローさんのとこいかないの?」


 ゆわの問いに桜は「うっ」と呻いて目を背ける。


「行くよ。謝りに行くよ、桜ちゃんは」


「何で志河さんが答えるんですか……いや、それはそれとして恥ずかしいすけど」


 往生際の悪い桜だが、その後父娘にしつこく迫られると、ついには観念した。


「分かりました、もう逃げません。ただお守りに、ゆわちゃんも連れて行きますね」


 謎の理由を口にし、桜はゆわの手を握って立ち上がる。玄関を出た家出少女は神妙な面持ちで「逃げねぇ……私は逃げねぇ……」と呟きながら実家へと帰っていた。


 もう心配はない。

 後はもうひとつの未来が4時間後、無事に訪れてくれれば。


 そうして龍幸が居間へ引っ込もうとした、その時だ。桜がものの数秒で戻ってきた。それもまるで、何かから逃げるように。


「き、来た! なんか来たよ志河さん!」


「にげたよ! サクラちゃんすごいにげたよ!」


「な、何、どうしたのっ?」


「ち、父親がめっちゃ走ってきた!」


 直後、今度は五郎が駆け込んできた。桜は「ぎゃっ!」と龍幸の背中に隠れる。


 五郎の顔は青ざめていながらも、不安定な苦笑いが浮かぶ。


「洋子が……産まれそう、だって……」


 龍幸と桜から出た驚愕の叫びに、ゆわは「うるさいー」と苦言を呈すのだった。

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