2章

第15話

 二度寝をした時に見る夢のような、やけに残り続けているどうでもいい思い出。


 少女にはひとつ、思い当たる記憶がある。

 

 彼女が小学校3年生の夏休みのこと。

 セミが元気に鳴くその朝、少女がラジオ体操から帰って来るとすでに朝ごはんが用意されていた。2階から掃除機の音が響く中、彼女は1人黙々と食べている。


 その際に見ていたのは児童向けアニメ。

 掃除機のせいでほぼ聞き取れなかったが、一時吸引音が止んだおかげで、あるキャラの迫真の台詞が耳に届いた。


「人を見かけで判断するのは良くないよ!」


 髪ピンクのヤツがそれ言っちゃうのか。

 子どもながらに彼女はそう思ったという。


 そんな記憶が蘇ったのは、中学生と高校生の境目に立っていたある日、少女が美容院でカラーリストを見ていた時だった。


 名も知らないキャラが脳裏をかすめたその直後、少女は自分でも驚くほど流暢に、ある注文をした。


 その瞬間の美容師の顔は、今でも彼女を思い出し笑いさせている。


 少女は今でも、何故あの時そんな注文をしたのか、何故存在そのものが冗談に見える滑稽な外見を手に入れたかったのか、明確な理解には至っていない。


 そうして少女の髪は、ピンク色に染まった。




 北陸とはいえ盆地。

 暑さは厳しいものになるだろうと龍幸は予想していた。


 だがいざ体感すると、現実はイメージを超えていた。まるで湯を沸かしている大鍋の上にいるよう。蒸し暑く、外へ出る気力を根こそぎ奪う。


 牛古市で迎える初めての夏は、志河父娘に新たな発見を与え続けた。


 とある日曜日。

 快晴の空の下、静電気よりはわずかに大きな雷が志河家に落ちた。


「ゆわ、これは何?」


 未来を予知せずとも、次なる展開は予測できたのだろう。ゆわは命じられるまでもなく正座する。父につむじを見せながら、沈黙を続けた。


「黙っていても何も解決しないよ。ゆわ、これは何?」


 龍幸はといえばいまだ叱り慣れておらず、心の中ではいっぱいいっぱい。それでも怒りの感情を必死に表現し、乳白色の壁に描かれた「超大作」を指差す。


 観念した画伯は、湿った声で作品のタイトルを口にした。


「……バナナ」


 その落書きは、色彩や形状など特徴をしっかり捉えた、確かなバナナであった。


「なんでバナナ……そんなに好きだったっけ?」


「クレヨンのね、キイロがぜんぜんへってないから、つかわなきゃっておもった」


「何その使命感……それより、落書き以上にいけないことがあるよね。わかる?」


 少し考えたのち、ゆわは首を振る。


「ウソをついたことだよ」


 この落書きは当初、龍幸の似顔絵が描かれた画用紙ですっぽり隠されていたのだ。あるいはゆわなりのお為ごかしだったのかもしれない。


 ただ画鋲の鋭利さに恐れをなし、セロテープを使用した詰めの甘さが犯行を明るみにする。上隅が剥がれ、バナナを隠すため似顔絵が使われたと理解した父は、虚しさに震えた。


「この絵どうしたのって聞いた時、ゆわ言ったよね。お父さんの誕生日だからって。お父さんの誕生日ぜんぜん先だからおかしいとは思ったけど……ウソだったんだね」


「……はい」


「いつも言ってるでしょ。ウソついちゃダメだって。なんで約束守れないの」


 するとゆわは、珍しい反応を見せる。

 小さな声ながら、はっきりと反抗した。


「……おとうさんだって……」


「え、お父さんが何?」


「……なんでも!」


 声を荒げてつけ離すゆわ。

 その態度にはつい龍幸もカッとなる。


「そんな悪い子じゃ、今日のおやつは抜きかなー。プリン買ってきたのになー」


「わぁーごめんなさいぃーっ!」


 ゆわは表情を一変、「許してぇ」とすがりつく。


 だがそこで、龍幸が思い出したのは先日見たワイドショーだ。


「子どもを食べ物で釣ったりするのはダメなんです。自主性が育たないんですよ」


 教育評論家と名乗る女性の言葉。

 頭をよぎった直後、龍幸は慌てて付け加える。


「あ、いや、おやつ抜きは冗談だからね。ウソだからね、ウソ」


「……ウソ?」


「……あ」


 5歳児の怪訝な瞳を前に、父は苦笑いさえ作れなかった。

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