第14話
ゆわがリンのためにどれだけ頑張ったか、龍幸はすべてを見た訳ではない。ただこの数日、ゆわの頭が彼女で占められていた事実は、言動や行動から把握できた。
幼稚園に行けばリンを鼓舞し、家でもタブレットのピアノアプリで練習。まるでゆわ自身が発表会に出るかのようだった。
あるいはその間、ゆわはすでにヒーローだったとさえ感じている。
それをゆわの中で確固たるものとするために、リンには完璧な演奏をしてほしい。龍幸はゆわと違い、自分本位であり娘本位な願望を宿していた。
迎えた当日。
市の文化会館にてゆわは、演奏を控える子ども達と同様の顔色をしていた。
「……ゆわ、しんぞうがとれそう」
スプラッタな表現を生み出すほどには、緊張しているらしい。
ちなみに本日のゆわのコーデは、まず着ることのない黒のドレス。龍幸は恐る恐るロビーを見渡し、娘の恰好が変に浮いていないかを確認する。
「こんな機会めったにないんだし、フォーマルで可愛いの着せてあげてください! でも主役を食わないように、派手すぎない色で!」
桜の助言に救われたと、密かに安堵するのだった。
父の不安は知りもせず、ゆわは落ち着かない様子で右往左往と歩き回る。同じく招待された幼稚園の友達は「ゆわちゃんがへんー」と率直な感想を述べる。
人知れず友達を思い気負う。
そんな娘の姿に龍幸は、すでに目を潤ませつつあった。
「ゆわはもう、立派なヒーローだなぁ」
「ゆわまだなにもしてないでしょ! ふざけないで!」
「えっ、すみません」
ロビーに開場を知らせるアナウンスが響く。ママ友らと連れ立ってホールに入ると、龍幸はその広さ、そして厳かな雰囲気に息を呑んだ。
「この辺でピアノの発表会できる会場って、ここしかなんです」
リンの母・中林は苦笑する。
彼女もまた、顔に明確な緊張が表れていた。
「でもむしろ、リンにとってはいい経験になってくれるはずですから」
娘の気の小ささを懸念する彼女にとっても、この発表会は大事な催しなのだ。
それぞれ感情を胸にしまったまま、発表会は始まる。
この時間帯は幼稚園生の部であり、登場する子たちはみな顔をこわばらせている。見事に弾き切る子からミスして泣き出す子まで、様々な演奏が見られた。
いよいよリンの名前がホールに響く。
赤いドレスで舞台に姿を現したリンも、他の子と違わず張り詰めた表情だ。
「あぁ、すごい緊張してる……」
中林が声を震わせる。
いくつもの視線をその身に受けながら、リンは弾き始めた。
ゆわと弾き続けてきた曲。龍幸にも耳馴染みがあり、だからこそゆわの緊張がどこで最高潮に達するのか把握している。
ゆわが見た未来、ミスをするその一節が刻一刻と迫る。
ゆわはリンの演奏に合わせ、膝を鍵盤代わりに弾く仕草をしていた。密かに、誰の目にも映らない場所で、彼女も戦っているのだ。
しかし、運命の瞬間はあっけなく、ゆわの前に訪れた。
「あっ……」
どこからかそんな声が漏れた。
不自然に外れた音。
ホールを一閃する凍えるような沈黙。
未来は残酷なまでに、不変であった。
ホールに走る戦慄。
中林の顔は苦しそうに歪む。
ゆわは、目に涙を溜めてうなだれる。
龍幸も、冷たい現実から目を背けるように、瞼を下ろした。
その時だ。
彼らの耳に、福音が届く。
再びピアノと対話を始めたリンの姿が、そこにはあった。その横顔は今にも泣き出しそうな繊細さを孕みながら、瞳は力強く鍵盤を見つめている。
「リン……」
中林の目尻からは、一筋の涙が伝う。
恥と恐怖をこらえながら、必死にゴールを目指す子どもの姿を、誇らしく思わない親はいない。龍幸でさえ気を抜けば涙が溢れそうなほど、舞台でただ1人奮闘するリンは、美しかった。
「ミライ、かわった……?」
小さな声で、ゆわが問いかける。
彼女が見た未来は、ミスをした後に舞台の上で号泣するというものだった。しかし今、そんな光景はどこにもない。
龍幸が大きく頷いて見せると、ゆわはグッと小さな両手を握った。
その後、リンは無事に演奏を終える。
大きな拍手が彼女を讃える中、ゆわはひときわ強く、誰よりも眩しい表情で、手を叩き続けていた。
ロビーに顔を出したリンが真っ先に駆け寄ったのは、母親の元だった。
「しっぱいしちゃった」
「うん。でも、よく諦めなかったね。えらいね」
抱きしめ合う母娘の姿はまるで映画のワンシーンようで、ママ友らは温かな笑顔で見つめる。
ゆわは龍幸の袖を引き、屈むよう合図。
こそこそと耳打ちした。
「よかったね、よかったねぇ」
「他人事みたいに言って。ゆわのおかげでしょ?」
「ちがうよ。だってしっぱいはしちゃったし……」
そこへ、リンが近寄ってきた。
とっさに龍幸から離れたゆわは、満面の笑みで「リンちゃんかっこよかった!」と感想を贈る。
するとリンは第一声、ゆわに告げた。
「ゆわちゃんのおかげだよ」
「え……」
「ゆわちゃんといっぱいれんしゅうしたし、あそこでミスするかもっていってくれたから、まちがってもこわくないっておもったんだよ」
惚けるゆわの両手を握り、リンはにこやかに言い放った。
「ありがとう!」
その後、リンは他の友達から引っ張りダコとなる。
ふと、背中から腕を回され、ガッチリと捕えられた龍幸。ゆわは何も言わず、父の背中に顔を埋めて微動だにしない。
微かに、鼻をすする音が聞こえた。
「ゆわのおかげだって」
「……うん」
「嬉しいね、人からありがとうって言われるのって」
「……うん」
「よく頑張ったね、ゆわもかっこよかったよ」
「……おとうさん。ゆわ、ちゃんとくだんできた?」
「もちろん。ゆわはヒーローだよ」
陰ながらあがいてきたヒーロー。彼女が救った赤いドレスのお姫様は今、大いに称賛を受けている。かたやヒーローは片隅で、静かに涙を流す。
くだんの子の栄誉を知っているのは、くだんの子の父、ただ1人であった。
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