第12話

 在りし日を思い出していたら、いつしか茜空には夜の闇がもたれかかって、薄暗い部屋にはエンドロールが流れていた。


 静かに鎮座する仏壇はテレビの明かりを浴び、微かな輝きを放っている。


「ええっ!」


 突如響いた驚嘆の声。

 ゆわは目は丸くしていた。


「なんでないてるのっ?」


「えっ、あっ……」


 龍幸は自らの頬に触れる。

 そこには一筋の涙の跡があった。


「なんで、なんでみんななくの……? ゆわがおかしいの……?」


「あ、いや大丈夫だよ。僕と桜ちゃんがおかしいんだよ」


「そうだよね……サクラちゃんって、ちょっとおかしいもんね……」


 明かりをつけると、ゆわは眩しそうに目をシパシパさせる。


「ゆわ。ゆわの名前はね、人を助けるって意味だけじゃないんだよ」


 龍幸が母子手帳を掲げて見せると、ゆわは「えっ!」と驚き仰け反った。


 ゆっくり順番に、「侑和」の2文字を指差す。


「こっちの侑が、人を助けるって意味なんだ」


 父の役割を取っておいたつもりなのか、空が伝えたのはここまでらしい。


「それとこっちの和は、みんな仲良くって意味なんだ。どんな時でも人を助けて、みんなを仲良くさせられる人になってほしいって思って、この名前をあげたんだよ」


 ゆわは噛みしめるように、何度も頷く。


「だからお父さん、ゆわが人を助けたいって思ってくだんをやるの、すごい嬉しい」


「……じゃあゆわ、くだんやっていいの?」


「もちろん。でもさ、くだんやってきて、こっちに込めたお願い、できたかな?」


 和を指差すと、ゆわは顔色を変えた。


「……できなかった。リンちゃん、ないちゃった」


 ゆわの顔がふにゃりと歪んでいく。

 抱き寄せると、嗚咽の始まりが聞こえてきた。


「大丈夫。ゆわは泣かせようしたんじゃないもんね。お父さんはわかってるよ」


 何度も「うん、うん」と返事はするものの、涙を乾かす決定打にはならない。ゆわが求めているのは、励ましの言葉ではないのだ。


「人に優しくするのって、実はちょっと難しいんだ。善いことをしたと思っても、それが誰かにとっては善いことじゃない時もあるから。言い方とか、ちょっとしたことで変わるんだ。だからリンちゃんも、ゆわの言葉に少し傷ついちゃったんだよ」


「うん……でもじゃあ、なんていえばよかったのかな」


「そうだな……ゆわが、リンちゃんになったつもりで考えればよかったんだと思う。リンちゃんさ、ピアノすごい頑張ってるんだよね?」


「うん。ようちえんとか、おウチでもやってるって」


「だよね。でもそれだけやっても、発表会で弾くのってすごい緊張するんだ。たくさんの人が自分を見ている中で弾くから、すごく怖いんだよ」


「……そっか。こわいのか」


「だからリンちゃんは、失敗するって言われるのがイヤなんだと思うな。失敗するって思ったら、発表会が余計に怖くなっちゃうから」


 そこまで噛み砕くと、ゆわも理解に至った表情をした。「しっぱいっていっちゃダメなんだ」と新たな見識をインプットしていく。


「ゆわ、前に聞いたよね? 何でガリドリは、ガリドリって人に教えないのって」


「うん、なんで?」


「お父さん思うんだけど、ガリドリとかヒーローは、人を助けることしか考えていないんだ。困っている人に手を差し伸べて、救うことがゴールで……つまり褒められるのには興味ないんじゃないかな。だからわざわざみんなに教えないんだよ、きっと」


「ほめられるのが、イヤなの?」


「イヤかどうかは分からないけど……たぶん、どっちでもいいんだよ。逆にお父さんがいけないって思うのは、褒められるために人を助けることだと思う。それだと相手を思いやってないから、さっき言ったみたいに傷つけちゃうかもしれないんだ」


 ゆわは腕を組んで熟考を始めた。

 幼い表情には険しさが見え、口からは「ぬー」と呻き声が漏れる。


「よくわかんない」


「そうだよね、難しいよね」


「でもね……ゆわ、ほめられたいっておもって、くだんやってたかも。それがおとうさんがいまいった、よくないことってのは、ちょっとわかる」


「……そっか。それをわかってくれれば、いいんじゃないかな」


 汗ばんだ頭を撫で、笑いかける。

 だがそれでもゆわは、不安そうな表情を崩さない。


「ゆわ、くだんうまくできるとおもう?」


 龍幸は大げさなほど大きく首肯する。

 しかし直後、口を真一文字に閉じ、瞳を無理やり鋭くしてみせた。


「でもね、ゆわがまだまだ未熟なのは間違いない。だからこれからはお父さんと特訓していくよ。習い事はくだんでいいんだもんね?」


 ゆわはぶんぶんと首を縦に振る。


「覚悟しておくんだぞ。お父さんはスパルタだからね」


「ス、スパゲ……」


「スパゲティじゃないよ、スパルタだよ。ちょー厳しいってこと。いいね?」


「お、おす!」と答えたその直後、彼女のお腹からきゅるると情けない音が響いた。


 父娘は顔を見合わせ、ゲラゲラと笑いあう。


「おとうさんがスパゲッティっていうから!」


「いや言ってないから!」


 夕飯の準備をする前に、母子手帳を棚に戻そうと仏間の明かりをつける。温白色の光に灯される室内。


 龍幸とゆわの視線は計ったかのように、仏壇の写真へ向かう。


 額縁の外へとはみ出さんほどの、快活でイタズラな笑顔が、そこにはあった。

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