第11話

 共に「ただいま」と言って靴を脱ぎ、うがい手洗いし、仏壇の前でもう一度「ただいま」を言う。


 ルーティンを終えてすぐ、龍幸はゆわに1枚のBDを掲げて見せる。


「ゆわ、まだお腹すいてないでしょ。晩ごはんまでこれ見ようか」


 ゆわは「あぁー!」と叫び突進する。


「ガリドリの! ガリドリのえいがのやつ!」


 桜が号泣したという劇場版ガリドリ。

 このBDの持ち主は、何を隠そう当の桜である。


 幼稚園の駐車場に着いた時のことだ。

 自戒の念で沈黙していた彼女はカバンからBDを取り出し、龍幸に突きつけた。


「これでゆわちゃんが元気になれば……」


 そう言って車から飛び出ていった。


 ピンク髪の大きなお友達に借りたBD。

 ゆわはつい先日鑑賞したにもかかわらず、画面に食い入って物語に埋没する。


 龍幸にとってのガリドリは、毎週正座して鑑賞するゆわの姿が面白く、それを眺めながら片手間に見ている程度のものだった。腰を据えて見るのは初めてだ。


 テンポの良いストーリーに入り込んでいると、あっという間に終盤となった。


 最後の強敵を前に、傷だらけの主人公が叫ぶ。


「だって私は、ヒーローだから!」


 どうやらこのシーンが映画の白眉のようで、ゆわは「待ってました!」とばかりに興奮し体を揺らす。


 龍幸は何の気なしに尋ねた。


「ゆわは何でヒーローになりたいの?」


 ゆわは画面からけして目を離さず、何なら面倒くさそうに答えた。


「ゆわのなまえだから」


「……ん?」


 難解な回答に、龍幸の意識が映画から引き剥がされる。


「名前だから? え、何、どういうこと?」


「もう! シュウチュウしてるのに!」


「ご、ごめんなさい……」


 おもむろに立ち上がったゆわは、何故か仏間へ駆け込む。棚から何やら取り出すと大急ぎでテレビの前に戻ってきた。


「母子手帳? え、何で?」


 混乱し続ける龍幸に、ゆわはもどかしそうに地団駄を踏む。表紙を掲げると、漢字で書かれた自分の名前を指差した。


「このカンジ、ヒトをたすけるってイミなんでしょっ?」


「え……」


「前にゆわがきいたら、おかあさんがおしえてくれたの。だから、ゆわはヒトをたすけるヒーローになりたいの! わかったっ?」


 頷く龍幸にゆわは「よし」と言うと、再度父の膝の上に座り映画に没頭していく。対して龍幸は、母子手帳から視線を動かせずにいた。


 そこにある懐かしい字が、昔日を思い起こさせる。


 娘の名前を書き記す姿を前に「字、意外とキレイだよね」と告げると「意外とは何事だ」と非難した彼女。そのしかめっ面が脳裏をよぎった。


 志河侑和


 その名前にまつわるの会話の数々を、龍幸は今でも鮮明に覚えている。


 真っ先に蘇ったのは、2年ほど前の記憶だ。




 まだ4歳だったゆわが何がしかの粗相を働き、母親に叱られた後のこと。泣きながら別室へ逃げ込んだゆわは、泣き疲れて眠っていた。


 一部始終を見ていた龍幸は、素直な感想を口にする。


「よくそんな急に、ガツンと怒れるね」


 キッチンで食器を洗う彼女は怒りの感情をすっかり消し、のほほんと応えた。


「合気道みたいなもんよ。何かやらかしたら反射的にコラァって出るようになった」


「すごいなぁ、特殊技能だなぁ」


 彼女は何故か眉をひそめる。


「他人事みたいに言ってないで、龍さんもたまには叱ってあげてよ」


「いや無理無理。僕はそんな瞬発的に火つかないよ」


「またそうやって安全圏から物言う。私がいない時、おイタしたらどうするの?」


 それは、実に頭の痛い質問だった。

 ゆわが叱られている場面を見た時はいつでも、その懸念が腹の中をゴロゴロ転がっている。


「本当にどうしようね、それ」


「んん、何だか深刻そうな返事ね。別に何でもかんでも怒れって言ってる訳じゃないのよ。怒らせたら怖いって思われるくらいでいいじゃない」


「うん、わかってる。でもいざって時に叱れるかどうかすら怪しいんだよ。ただでさえ娘に対する父親のスタンスって難しいのに」


「へー何それ。どう難しいの?」


「何というか、こう……まず可愛いって感情が来ちゃうんだよ。そうしたらもうダメなんだ。ぶっちゃけると、嫌われるのが怖いのです」


 真剣な悩みなのだが、彼女は鼻水を出すほど大笑いしていた。


 あまりに酷い態度にスネていると、彼女は洗い物をする手を止めて隣に座る。ティッシュで鼻をかみ、動物にするように龍幸の髪をくしゃくしゃかき回す。


「娘にとって父親って、何のためにいるのかねぇ」


「大事にされてるって娘が感じれば、それはもう良い父だと思うけど」


「じゃあ君は子どもの時、どんな時にそう感じたの?」


「うーん……父親との時間、短かったからなぁ」


 彼女は小学校の頃、父親との死別を経験している。加えて龍幸も中学生の頃に母を亡くした。互いに片親である事実が、かつて出会って間もない2人の距離を縮めた。


 ただ双方、異性の親という存在への印象が著しく欠如しているのも事実だ。


「そういえば、私の父親に関する最初の記憶って、名前の意味を教えてくれた時だったな」


「へー。どんな意味なの?」


「何か、生まれた日はものすごく透き通って見えたんだって。安直だよねえ」


 亡き父にダメ出しする彼女の苦笑には、照れくさそうな色も混じる。


「それじゃあさ、龍さんはゆわに名前の意味を教える係ってことにしようか」


「ええ、係って何だよ」


「そうだよ、そういうセンチな役回りをしていけばいいじゃん、父親としてさ。私はそういうのダメかもなー、ボケに走りそう」


 もはやそれは決定事項のようで、「はー楽しみじゃ」と意地悪そうな顔をする。釈然としない龍幸は、そっと嫌味を言い渡した。


「全然透き通ってないよね。詐欺じゃん」


 彼女は小悪魔な笑みから一転、晴れ渡る「空」のように、清々しく笑うのだった。

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