第22話

 夕日を飲み込んだクジラのような雲が見下ろす町に、ポツポツ街灯が点り始める。


 田園に囲まれた道を行く軽自動車の中には今、龍幸と桜の2人だけ。


 ゆわをリンの家へ送ったのは数分前。

 大人の都合を気にしない子ども特有の超理論から、いつの間にか遊びに行くことが決定したらしい。中林と話し合った結果、1時間だけという条件で実現する。


 そこでお迎えについてきた桜を、まずは送り届けようと車を走らせていた。


 車内はけして居心地の良くない空気で充満している。ゆわが予知した「予定日」の明日を控え、少女は家路を厭う。


「志河さん。このままどこか連れてってくださいよ」


「どこかって?」


「どこでも。遠くへ」


「遠くかどうかはわからないけど、ドラッグストアなら連れて行ってあげるよ。確かシャンプーがもうなかったからさ」


「あーそりゃ遠いですわ。いいですねぇ」


 その派手な頭の中身は、いつもはとても難解で、大人を困らせる。ただし時々、ちょっとだけ気づいてほしそうに覗いてくる。


 ドラックストアに入ると、桜は一人でフラフラと陳列棚の間を縫って行った。龍幸はシャンプーの詰め替えパックを手に取り、放浪中のピンク髪を探す。


 桜がしゃがみ込んでいたのは、アロマオイルのコーナーだった。


「こういうのって、本当に癒されるんですかね」


「空は、お腹が大きくなってきた頃によく買ってたよ」


「ふーん。うわ、これめっちゃ湿布の匂い。ユーカリって何。聞いたことある」


「アレでしょ、コアラが好きなやつ」


「あーコアラって肩腰にキそうな生活してますもんね」


 桜は並べられたオイルのテスターをひとつひとつ鼻に近づけては「なるほどね」「はいはい、こういうのね」と独特な感想を述べる。


「そんなに癒されたいの?」


 龍幸がからかうように尋ねる。

 思いの外、軽くない返答が飛んできた。


「そうですねぇ。もう私、疲れちまいましたわ」


「……五郎さんのこと?」


「それもありますよ、もちろん。最近余計にグチグチ言ってくるようになったし、志河さんはもはや私のお願い叶える件、全然やる気ないし」


「ちゃんと考えてるから……」


 桜は「ホントかなぁ」と訝しむように龍幸を見上げる。ただ現在彼女の中にある憂鬱の発生源は、龍幸の知らないところにもあるようだ。


「今日ね、学校の先生とバトっちまったんですわ」


 穏やかではない導入。

 桜は雨に降られてしまったくらいの軽いテンションで話し出す。


「私を目の敵にしてる生活指導のオバハンがいるんですわ。まあおそらく、この髪が気に入らないんですよ。校則的にはオッケーなのに」


 その後も落語のようにテンポが速く、感情の込もった説明は続く。


 早々に夏休みの宿題を終わらそうと登校し、図書室で励んでいた時のこと。


 現れた例の教師の些細な小言に珍しく突っかかった結果、向こうのヒステリックな部分を存分に引き出してしまったらしい。


 人格攻撃が思った以上にクリーンヒットしたらしく、結局は謝罪するハメになったが、勝負には勝ったと桜は鼻高々に語った。


「そんな訳で、今日はもうヘトヘトなのです。癒されたいのです」


 大きな大きなため息をつき、桜は話を締める。


「問題児だなぁ」


 こんな龍幸の感想に、桜はムッとした顔で振り向く。


「でもせっかくだから、勝利記念にどれか買ってあげようか」


「……何すかそれ。バカにしてますよね」


 桜はもう1周テスターを確かめていく。

 悩んだ末にオレンジのフレグランスオイルを選び、会計後には龍幸へ深々と頭を下げた。


 中途半端に時間を食ったので、ゆわを迎えに行くまでファストフード店で時間を潰す。夕飯前でも桜は「こんなもん朝飯前です」という謎の言葉を残し、フライドチキンを次々に頬張っていく。


「ここだけの話ですけどね、実は美容院でネタバレされる前から、何となく違和感はあったんですよ。私って他の子と違うのかな、っていう」


 にわかに賑わいつつある店内で、桜は何でもないように言う。


「え、なんでそう思ったの?」


「空気感としか言いようがないですね」


 最後の一口を味わうと、桜はきちんと手を合わせた。


「親戚が集まった時とかにね、私を見る目とか言動から、醸し出されるんですよ。あ、可哀想な子だっていう空気感が。子どもって大人が思っているよりもずっと、大人の発する空気感に敏感なんですよね」


 可哀想な子、というワードに、ピリッと胸が痛んだ。


「だからネタバレされた時も、そこまでショック受けなかったのかなーって」


 笑い話のように軽いトーンで話す。

 実際桜の言動を見るに、今はもう笑い話というジャンルに区分して心に収めているのだろう。きっとそこにウソはない。


 だが美容師が口を滑らせる前までは、先ほど口にした空気感による、真綿で首を絞められるような不安感に苛まれていたに違いない。


 桜の言うように、子どもというのはびっくりするほど繊細で、心配事を見つけるのがとびきり上手いのだ。


「ゆわも感じてるのかな、その空気感」


 桜は大きな瞳で、龍幸を見つめる。

 打って変わって真摯な口調で応えた。


「感じていますよ。ゆわちゃんは私と違って頭良くて、感受性も豊かですから。でも何よりも大きな違いは、ゆわちゃん自身がもう、人と違うことに気づいてるってところです。うちにはお母さんがいない、って」


「だよね」と落ち込む龍幸に、それでも桜は容赦ない質問を突きつける。


「そういえば志河さん、ゆわちゃんは本当の意味でお母さんの死を理解していないかもって、前に言ってましたけど……今でもそうなんですか?」


「うん……会えない理由も、死の意味も、曖昧な表現でしか教えていないから」


 死とは人生において最も理不尽な決定だ。

 大人でさえも耐え難い現実だ。

 それをゆわに説明する、つまりは最愛の母親に二度と会えないと理解させるのは、あまりに酷だ。


「騙すっていうのは、子どもを傷つけない最もお手軽な方法ですからね」


「……説得力あるね」


「あ、すみません、また失礼こいちゃって。否定するつもりはないですよ」


 約束の時間が近づき、龍幸と桜は店を出る。


「桜ちゃんの話を聞いていたのに、結局僕の話になっちゃったね」


「私のはただのストレスですから。色々話して肉食えば解消です。アロマも買ってもらったし。あとは明日、ゆわちゃんの予知通り弟がバーンッと生まれれば完璧です。そしたら父親も仕事行くし、何もかも幸せ。幸せな未来が到来です」


「……まあ、五郎さんも桜ちゃんのこと思っての諸々だからさ」


「志河さんは常に父親擁護派ですねぇ」


 助手席に座った桜は、締めたシートベルトを鬱陶しそうに伸ばしては放す。


「僕も一応父親だから、気持ちは分かるんだよ。娘がどんな立場でも、普通に幸せになってほしいって思うんだよ。あ、普通って言葉、嫌いだっけ」


「大人って普通が好きですね。私は髪ピンクなんで、どうしようもないですけど」


 一笑しながら、龍幸はキーを差し込む。

 エンジン音に紛れ、隣から届いた小さな声。


「未来の私は、なんで泣くんだろう」


 龍幸はつい、聞こえないフリをした。

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