第21話

 水面を前にしゃがみこむゆわは、垂れ下がる糸の行方を見つめて動かない。


 息を殺して獲物を待つ。

 一流の狩人が木と同化するように、彼女も今まさに、川と一体になろうとしているのかもしれない。


 その集中ぶりがおかしく、つい記録に残したくなった龍幸。釣り竿を左手に任せ、空いた右手でスマホを取り出す。


 その時「たべた!」とゆわが叫ぶ。

 慌てて引き上げると、針に刺さっていたエサはもうそこにはなかった。


「もーおとうさんおそい! サカナにげちゃったじゃん!」


「いや、ゆわが騒いだから逃げたんだよ、きっと……」


「サカナがニホンゴわかるわけないでしょ!」


 こんな父娘のやり取りを見て、五郎は声を出して笑う。


「変な親子だねえ君らは。まあ、仲が良いのはよろしいことだ」


 五郎はビチビチと暴れるニジマスから針を抜いている最中だった。気づけば彼はもう3匹も釣り上げている。対して龍幸は、いまだボウズである。


「ゴローさんまたつったのー! すごーいてんさーい!」


 ゆわは魚が入ったバケツを覗き込み、感嘆の声を上げる。五郎は照れるでもなく爽やかに笑い、再び糸を川面に落とした。


「この辺の娯楽なんて本当に限られてるからね。この川も小学生の時からずーっと通ってるよ」


 普段よりも饒舌な五郎。声も幾分か弾んでいる。


 平日休みを有効に使ってくださいと、桜に釘を刺された龍幸は、思い切って五郎を誘ってみた。


 無論、桜の「ハッピー」とやらを叶えるため。


 洋子のこともあって初めは五郎も渋っていたが、「まだ出てくる気がしない」と当の妊婦が言い張り、しまいには尻を蹴られるように追い出された。


 幸い車で10分もかからないご近所なので、何かあれば急いで駆けつければいい。ただその「何か」が起こるのは5日後だと、龍幸は知っていた。


 ゆわが見た洋子さんの陣痛が始まる運命の日まで、残り5日と迫っていた。


 ゆわに釣り竿を握らせること15分、存外飽きるのは早かった。その後は龍幸のオペレーター役に興じていたが、現在は別の親子連れの元で同年代の子と遊んでいる。


 龍幸と五郎は竿を構えたまま、静かにアタリを待ち続ける。


「今くらいの時期が一番緊張しますよね、夫としては」


 龍幸の問いかけに、五郎は辺りを確認した後、ふっと肩の力を抜いた。


「よかった、龍幸くんもそうだったんだ」


「みんなそうですよ、たぶん。何というか、無力感に付きまとわれますよね。何をしたらいい、じゃなくて、どうすれば邪魔にならないかって考えてました」


「すごい分かる。まあでも……僕は初めてだからさ。緊張はしてるけど、同時にすべてが新鮮で、なかなか楽しんでるよ」


 川辺に吹くひんやりとした風、子どもたちの楽しげな声。身を包むすべてが心地よく、ぼんやりと自然に体を委ねる。


 そこで龍幸はふいと、本来の目的を思い出した。


 血の繋がりがない事実を告白させるよう、五郎をそそのかす。そんなミッション。思い出しただけで、龍幸は踏み込むのをやめた。


 今は純粋に釣りを楽しんでもらおうと、龍幸は心にある重荷を下ろす。


「今はどちらかといえば、桜が心配かなぁ」


 すると五郎の方から、桜の話題を上げる。


「心配って、何がですか?」


「最近、反抗的な気がするんだよね。もしかしたら弟ができることで、桜もちょっとブルーになってるのかなって」


 やはり、桜の変化には気づいているようだ。


「僕にとっては桜もまだまだ子どもだからさ。そういう目で見ちゃうんだよ」


「サクラちゃんはこどもなの?」


 いつの間に戻っていたのか、ゆわは龍幸の背後で仁王立ちしていた。そして何やら眉をハの字にして、五郎へ問いかける。その様子に大人2人は首を傾げた。


「え、うん、そうだよ。僕は桜のお父さんだからね」


「でもサクラちゃんはゴローさんがほんとうのおと……」


「うわーかかった! こりゃ大物かーっ?」


 大声を上げると、ゆわはまんまと「えっ、ほんとにっ?」と食いつく。竿を引き上げると、そこには餌がついたままの針。


 ゆわは「ウソじゃん!」と目を剥いた。


 五郎はというと、龍幸らのやり取りをニコニコ見つめていて、怪しんでいる雰囲気はない。龍幸は身体が一気に弛緩させる。


 最悪の事態は免れた。

 ただそれから五郎と別れるまで、龍幸は心ここに在らずだった。




 深く教えていなかった龍幸のミスとはいえ、ゆわがこんな強硬手段に出るとは。


 帰宅してから龍幸は、改めてゆわへ牧家について解説する。


「だから、今はまだ桜ちゃんの言ったこと、五郎さんには内緒にしなきゃダメなの。じゃないみんな困っちゃうんだ。わかる?」


「……ん」


 ゆわは五郎に爆弾発言しかけた時から仏頂面のまま。あるいは桜が語った内容を曲解し、五郎が悪者なのだと勘違いしているのかもしれない。


 ゆわには難しい話なのか、不機嫌そうな表情を見せる。


 そうして一言こぼした。


「ゆわ、ウソつくの?」


「え、ウソ? 何で?」


「ゆわ、ほんとうはしってるのに、しらないってウソつくの? ウソはいけないのに?」


「ゆわ、内緒にするっていうのはウソじゃないよ。何というか、優しさ、的な?」


「……へんなの」


 そう言うとゆわは断りもせず、その場から去っていった。

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