第20話

 それは、1年半ほど前のこと。


 桜は小さじ一杯分の緊張と丼一杯分の高揚感を胸に、美容院の扉を開いた。


 母娘で経営している近所のお店。

 いつもは娘さんに相手をしてもらうのだが、その時はおばさんの方しかいなかった。入店と同時に、大さじ一杯分の不安が追加される。


 桜はうわずった口調で注文する。


「髪は肩くらいまで切って……あと、染めようかなーって」


「あら、学校は大丈夫なの?」


「はい。かなり校則の緩い高校なので」


 施術はカットから始まった。

 いつもの娘さんなら世間話に花を咲かせるところだが、おばさんはズケズケと踏み込んできて面倒だ。なので、大概は寝たフリをする。


 その日も例によって、ウトウトと船を漕ぎ始めてから完全に落ちるまで演じきる。まぶたの裏を見つめながら、髪の切られる音をひたすら聞き続けた。


 ふと、おばさんの鼻歌が遠ざかっていく。カラーリング剤の準備をしているようで、ゴム手袋をはめる音が微かに聞こえた。


 そこへ、娘さんが帰ってきた。

 扉を開く音と「はー暑い」との声が響いた。


「あれ、牧さんとこの桜ちゃんじゃない」


 桜はそのタイミングで目を開こうとしたが、それよりも早く、おばさんが声を上げる。


 彼女はいかにも無邪気な口調で言った。


「そうそう。大きくなったわよねぇ、あのもらわれっ子が」


 くしゃりと、胸の奥で生卵が割れたような音がした。


「ちょっとお母さん!」


「大丈夫よ、寝てるんだから」


 桜は一切の挙動を禁じた。

 呼吸さえ、止めるほどの意識で。すぐ近所にあった巨大な絶望に当て逃げされた桜は目も開けないこの状況で、ひたすら暗闇と対峙し続けた。


 数分後、おばさんのわざとらしく優しい声で起こされる。


「ごめんねー桜ちゃん。何色に染めるんだっけ? おばさん忘れちゃって」


 数分ぶりに拝む、鏡に映った自分の顔。


 あぁ、なんて不自然で、気味の悪い笑顔なのだろう。


「ピンクで、お願いします」


 淡々と、在りし日の桜は告げた。




「そうして私は、華麗な高校デビューを果たしたのでありました」


 昔話を語り終えると、龍幸はエアコンの音にもかき消されそうな声で「そう……」と漏らす。


「そういう訳です。ご迷惑おかけしましてすみませんね」


 桜は雰囲気を作り直そうと軽い口調で話すものの、龍幸がそれを許さない。


「そんなひどいこと、あっていいの……?」


「いやぁ本人も悪気があった訳ではないでしょうから。事故みたいなものなので、私も全然気にしていません。今でもその美容院に通ってますし」


 そこくらいしか、近所に美容院がないからだけれど。


「でも、ショックじゃなかったの?」


「悶々とはしましたよ。でもショックという感じではなかったですね。何というか……血っていうほど大事ですか、みたいな」


 強がり、もしくは冷たいと揶揄されるかもしれない。だが、これが本心なのだ。


「だって私にはどうしたってあの2人が親なんですから。血が繋がっていないってだけで、私を取り巻く環境や生活が変わる訳でもないですし。血なんてみんな同じ色。親子丼だってそこにある鶏肉と卵が本物の親子って訳じゃないでしょ。わかりますよね?」


「いや、うん。最後の方よくわからなくなったけど……」


 桜の口調には熱が帯び始め、龍幸の顔には混乱が映る。発端のゆわはというと、話に飽きてお絵描きをしていた。


「今後はどうするの。知ってること、ずっと隠していくの?」


「理想はそうですね。満を持して両親から暴露された時、どんな顔をすれば新鮮な反応に見えるか、常々模索してます。ただいつ聞かされるかは読めないんですよね。本命は20歳の誕生日、対抗は18歳の誕生日で、大穴は結婚前夜。大穴の場合、そもそも結婚できるかが鍵になりますね」


「当人がそれでいいならいいけど……ノリ軽すぎない?」


「だってソレ知ったのって1年以上前ですよ。もうはよ言ってくれって感じです。茶番ですよ茶番。ドッキリかけられる前に仕掛けに気づいちゃった、みたいな」


「そ、そう……」


「ああでも、どういう経緯で私が牧家に来たかは知らないので、志河さん教えてくださいよ」


「いやいやいやっ、そんなさらっと言えないから!」


「やっぱり、志河さんは知ってるんですね」


「……あ」


 脇の甘い一児の父である。


 そういえば、と桜はひとつ気がかりを見つける。


「ゆわちゃんゆわちゃん、ちょっと聞いてもいい?」


 蚊帳の外だったゆわは、テーブルの向こうからぴょこっと顔を出します。


「ゆわちゃんが見た未来って、私とゆわちゃんの他に誰がいた?」


 桜がゆわの前で泣きながら、「本当のお父さんじゃないくせに」などと話す未来。あまりに謎が多すぎる。


「あとは、おとうさんだけだった」


「そっか、よかったー。ちなみにどこで、いつのことか分かる?」


「んーこのへやで、そとはあかるかったから、おひるだとおもう。なんにちかはしらない」


「志河さん日めくりカレンダー買いましょうよ。せっかくの予知がもったいない」


「うん、僕も今同じこと思った」


 何はともあれ良かったと、桜は安堵する。


 桜は厄介事を起こしたり悪人を作るのが嫌いな人間である。美容師にネタバレされたこの事実、できることなら一生両親には知られたくないのだ。


「さて、じゃあとりあえず、その未来を回避するってことで話を進めましょうか」


 桜の提案に、龍幸は首を傾げた。


「え、回避したいの?」


「あのね。志河さんあのね。したいに決まってるでしょう。どこの世界に人んちでおじさんと園児に見つめられながら泣き喚きたい人間がいるのですか」


「いやそんなこと言われても……原因がわからなきゃ難しいよ」


「そんなの、私がハッピーになればいいだけじゃないですか」


「なおのこと抽象的になっちゃったよ」


「あぁそうだ。本当の子じゃないって私に言わせるよう、両親をそそのかしてくださいよ」


「ええっ!」


 龍幸はひどく狼狽しながら、丁重に言い聞かせる。


「あのね。桜ちゃんあのね。それは反則です。そういうのを告白するタイミングって、家族によって違うんだよ。だからきっと五郎さんにも考えがあって……」


「でも志河さんもゆわちゃんも、家族みたいなものじゃないですか」


「いやでも実際は違うじゃないですか」


「そうなんですか。私だけだったんですね、家族だって思ってたの。寂しいです」


「そういうのいいから。とにかくそんな無茶苦茶な……」


「くだん」


 たったひとつの単語で、空気が切り替わる。


 龍幸は言葉の続きを飲み込む。

 そしてすっかり存在感を失っていたゆわは、反射的に顔を上げ、桜を凝視する。


 2つの視線を一身に受けた桜は、改めて感心する。


 あぁこの2人、目元がそっくり。

 当たり前だよね。家族だもんね。


「ヒーローくだんは、未来で泣いている人を助けてくれるんですよね?」


 龍幸は口をひくつかせる。

 そしてゆわは、むやみに元気いっぱい返事するのだった。


「たすけるよっ!」

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