第23話
帰宅後、龍幸とゆわが囲む食卓は、わざとらしい賑やかさを孕む。
五郎と釣りをしたあの日から、志河家にはどこかぎこちない空気が漂っていた。
龍幸は少しでも距離を縮めようと娘に擦り寄り、会話が途切れる瞬間にはアレルギーを起こし、次から次へ話題を振り続けている。そんな今日この頃である。
「え、おとうさん、サクラちゃんとあそんでたの? いーなー、ずるいー!」
「遊んでたわけじゃないけどね。ゆわは本当に桜ちゃんのこと好きだなぁ。桜ちゃんのどんなところが良いの?」
「うーん、ヘンなところ」
「へ、変……通な楽しみ方だね」
ゆわは鼻息荒く熱弁し始める。
「サクラちゃんはね、ほかのオトナのヒトとちょっとちがう。そこがヘンで、カッコいい」
「まあ確かに、桜ちゃんは変わってるというか、天然だよね」
「テンネン? テンネンってなに?」
「えーっと、難しいな。桜ちゃんみたいに変わってる人のことをそう言うの」
「へー。イイね、テンネン。ゆわもテンネンなりたい」
「なりたいか……でもな、ゆわ。天然って生まれ持った才能だからさ」
「あーサイノウね、そっかー。でもゆわ、がんばってみるよ」
食事を終え、龍幸は風呂掃除を始める。
ゆわはその後についてきて、作業する龍幸の後ろで愉快そうに桜の話を続けていた。そうして居間で、お湯が溜まるのを待っていたその時だ。
ゆわは突如として「あーっ!」と叫ぶ。
「サクラちゃんたすけるの、わすれてたっ!」
「えっ……あぁ、桜ちゃんの未来のことね。忘れてたのか……」
ゆわは首が取れそうなほどの勢いで何度も頷く。
「でもねゆわ、まずいつの話かも分からないからさ、助けるのは難しいよ」
親しい人が悲しい思いをしているのを見て助けたいと思うのは、何も間違ってはいない。しかし何故泣いているのか分からなければ、動きようがない。
ただその理屈は、やはりまだゆわには難しいようだ。
「ゆわ、くだんだし。たすけなきゃ」
「でもほら、桜ちゃん達は今赤ちゃんの準備で忙しいし……そうだ、赤ちゃんが生まれてくればみんな解決するよ。桜ちゃんもさっきそう言ってたし……」
「あかちゃんがうまれればいいの? あかちゃんがわるいの?」
「いやいやっ! そんなことはなくてですねっ……」
要領を得ない龍幸との問答の中で、ゆわはみるみる不機嫌になっていく。
そうして再び父娘の間にキリキリとした緊張感が生まれる。むしろこれまででも最大級の不満が、ゆわの身体からオーラとなって溢れていた。
「あのさー。ゆわ、ゴローさんのハナシきいてから、ずっときになってたんだけど」
ゆわはテーブルに肘をつき、膨らんだ頬を手のひらで支える。眉間にはシワが寄り、細めた目は龍幸を捉えて離さない。
追い詰め方が実に母親と似ていて、父は怖気を感じた。
「ゴローさんはサクラちゃんにほんとうのことナイショにしてるし、サクラちゃんはほんとうはしってるのにナイショにしてるんだよね?」
「まあ……そうだね」
「ウソついてるじゃん。ふたりともオトナなのに。ウソついちゃいけないのに」
龍幸はまたも痛感する。
ゆわの理解力は、父の想像を遥かに超えているのだ。
まさか牧家の複雑な事情を、ニュアンスのみとはいえここまで把握しているとは。
ウソはいけない。
でも、大人は頻繁にウソをつく。
何故か。
ある意味でこれは、大人でさえも理解に至っていない人が多い、社会が生んだ巨大な矛盾だ。例に漏れず龍幸も、明確な答えを持っていなかった。
思案の末に龍幸は、タブーとも言える回答を用意した。
毒か薬か、どちらに転んでもおかしくない。龍幸はそれをゆわの頭の良さ、そして順応性の高さに頼り、繰り出す。
「……ゆわ、あのね。これはちょっと難しい話なんだけど、よく聞いて」
父の緊張が移ったか、ゆわは生唾を飲む。
「この世界には……ついて良いウソ、というものがあります」
ああ言ってしまった。
龍幸は胃の中で罪悪感が膨らんでいく。
ゆわは龍幸の言葉に、ポカンとした。
まばたきを忘れ、しばし言葉を失う。
「……めがでそうになった」
まず絞り出したのはこんな台詞。
この5歳児はたまにおどろおどろしい表現をする。
「ごめんね、いつもと逆のこと言ってるから混乱してるよね。でも本当なんだ。ウソには、良いウソと悪いウソがあるんだ」
いまだ驚きを隠せないゆわ。
長い戦いになるだろうと、龍幸は一度麦茶で喉を潤す。
「前に、くだんのこと隠さなきゃいけない理由を教えたよね。褒められるために人助けするのは良くないって。それと同じで、自分のためにつくウソはやっぱり悪いウソなんだ」
少し考えると、ゆわはかくんと糸が切れた人形のように頷く。
「逆に良いウソっていうのは、相手のためを思ったウソなんだ。相手を悲しませたくないって気持ちから出るウソなんだ。五郎さんと桜ちゃんのウソもそれで、五郎さんは桜ちゃんのため、桜ちゃんは五郎さんのためについているウソなんだ。わかる?」
ゆわはここまで、呆然としながらも口を挟まず聞き入っていた。そうしてしばらくの沈黙を経て、ある程度把握したようだ。
そして同時に、不穏な反応を見せた。
口の震えから始まり、少しずつ顔が歪んでいく。瞳は海に沈んでいくように滲む。
「っ……じゃあ、おとうさんも……」
涙の理由を、ゆわは自ら口にし始める。
「おとうさんもっ……ゆわに、いいウソつくの……っ?」
「……そうだね。もしかしたらつくかもしれない。でもそれはゆわを思って……」
「おかあさん……」
その思いがけぬ単語に、龍幸は次の言葉を忘れてしまった。
「いつかおかあさんにあえるって、おとうさんいったのに……ぜんぜんあえない」
「え……」
しとどに涙を流しながら、おぼろげな声でゆわは、秘めた本音を吐き出していく。
「どんなにまっても、おかあさんかえってこないし……どんなにミライをみても、そこにおかあさんいないし……これじゃあミライみてもっ、イミないじゃんっ……おとうさん、おかあさんにあえるって、いいウソなの……?」
その時、龍幸は初めて気づいた。
自分が取り返しのつかない罪を犯していたことに。
ずっと待っていれば、いつかはお母さんに会える。
空が亡くなってから、きちんと説明することを恐れた龍幸が言い続けてきた、安易な気休めの言葉。ゆわは素直に受け取り、誤解してしまった。
親の何気ない一言が、子どもに大きな影響を与えるかもしれない。
父はその恐れを常に意識し、娘と向き合ってきたはずだった。
今まさに、龍幸の軽はずみな言葉が、ゆわに大きな傷を与えてしまったのだ。
「ゆわ、ごめん……」
抱きしめられそうになると、ゆわはとっさに拒絶する。
「ヤダ、ヤダ……」
そう繰り返しながら、両手を床につき、吐くように号泣していた。
「ごめんくださーい」
その時だ。玄関から桜の声が届く。
瞬時に察知したゆわは2階へ駆け上がっていった。
「あれ、今2階に行ったのゆわちゃんですよね。どうしたんですか?」
「あ、いや、ちょっとね……それよりどうしたの、その大荷物」
何やら桜は肩にボストンバッグをかけている。旅行にでも行くかのような様相だと思っていると、当たらずとも遠からずな回答が言い放たれた。
「家出してきました」
波乱は、あちらこちらで起きていた。
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