第5話
これは、龍幸とゆわが牛古市に移住する以前のこと。
母親が他界してから2ヶ月が経った頃、ゆわに異変が起きた。
それは決まって平日の朝に訪れた。
表情が陰り、朝ごはんを残し、トイレの時間も長くなる。
意味なく幼稚園に行きたがらないのは珍しくないと、知り合いの母親たちは言う。ただそれが毎日、それも日に日に酷くなっていくのはまともでない。
龍幸はそれまで、いわば子育ての楽しい部分だけ掬い取ることでしか、ゆわと触れ合ってこなかった。
司書の仕事を終え帰宅した後、または休日、友達のように遊んでいただけ。
育児への理解も足りないまま日常を引き千切られ、教育の真正面に引きずり出された時、彼が真っ先に感じのは恐怖だった。
自分の一言が1人の人間を構築する材料になる。そのシステムは重圧でしかなかったのだ。
そんな言い訳を免罪符に、龍幸はその時、意識的に二の足を踏んでいた。
ゆわとはできるだけ友達のような存在になろう。そうやって暗がりに踏み込まず、楽しい思いだけ共有しようとした。
ゆわの抱える問題、その根源はある日、目に見えるものとなって現れた。
幼稚園へ行くと、担任が決まり悪そうに出迎えた。
案内された廊下、その壁には「怖いもの」とのテーマで描かれた園児の絵が並んでいた。オバケや雷、父親らしき絵もある。
その中の1枚が、龍幸の目を留めさせた。
誰がどう見ても、ゆわの絵は異質だった。
画用紙を埋め尽くす黒い服の人、人、人。
彼らに囲まれる少女は涙を流し、同じく辛そうな顔をする隣の人物の手を握る。
むせかえるほどの苦悶が、絵から燻し出されていた。
それは、満員電車の苦痛を表現していた。
母がいた頃のゆわは、バスによる送迎で通園していた。だが龍幸の通勤時間に合わせるようになり、毎朝電車に乗るようになった。
大人でも辟易する都内の満員電車、園児にとっては一層耐えがたい空間だった。
後頭部を殴られたような感覚が、龍幸の中で飛び散る。
その1枚の絵が、彼のゆわへの向き合い方を変えた。
自然と仕事の空き時間は、転職サイトの閲覧で埋まるようになる。
司書の空きを検索しても、別の仕事を検討しても、通勤の質が改善される案件は少ない。
東京から離れる考えもあったが、地元には頼れる人がいない。だからといって素知らぬ土地に足を踏み込むにも、相応の覚悟と勇気が必要だ。
どの選択が正解なのか、思考はみるみる深みへはまっていく。
そんな時だ。
苦心を見透かしたかのように、龍幸の元を訪れたのは、死んだ妻の叔父にあたる牧五郎だった。
事情を吐露すると、五郎はひとつの選択肢を提示した。
「牛古市に移住するのはどうだろう」
それは五郎の住む町であり、妻の故郷でもある。
市役所職員である彼は、その場で職業支援課に勤める同僚に連絡を取る。幸運にも市立図書館は司書の求人を出していた。
また亡き両親の住んでいた住居が何年も空き家になっていて困っていると、彼は他人事のように笑う。
未経験である田舎での生活や転職先の待遇など、不安がないとは言えない。
だが最優先に考えたのは、ゆわの心。
ひとつひとつ噛み砕くように、彼女に説明する。
最後に役所が公開している、牛古市のPR動画を見せてみた。
きっと一生忘れることのない、娘の瞳に光が灯った瞬間を、龍幸は見た。
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