第6話
会議室も兼ねた、長机とパイプ椅子が並べられただけの休憩室。
そこで遅めの昼食をとった龍幸は、普段と変わらず本の世界に没頭している。
いわゆる本の虫だった龍幸も、ゆわが誕生してからは本を読む余裕に罪悪感を感じるようになった。妻のいた頃でさえそうなのだから、今ではもう家で触れるのは絵本と育児書くらい。
なのでこの休憩の間が、彼にとって貴重な読書の時間となっていた。
「志河さん、今日は小説じゃないんですか?」
同僚が物珍しそうに、本の表紙を見つめる。
「郷土資料ですか? 何でまた」
「ちょっと調べ物をね」
同僚は開いているページを覗き込む。
「くだんの子ですか。懐かしい」
「やっぱり知っているんだ」
「牛古市民なら知らない方が驚きです。志河さんこそなんで? 東京の人なのに」
曖昧な反応を見せる龍幸に、彼女は何か察したような顔をする。
「もしかして、娘さんですか?」
冷たい汗が、舐めるように龍幸の背筋を伝う。
「私も幼稚園の時によく聞かされましたよ。学芸会で劇とかもやりましたし」
「ああ……うん。娘が言っててね。みんな知ってるのに自分だけ知らないって」
「やっぱり」と笑う同僚の表情には、わずかな呆れが見られる。
閉塞した地方での生活に辟易している彼女のくだんの子への印象は、桜とは違いどこか乾いていた。
彼女が出ていくと、ため息が漏れた。
改めて、牛古市の民俗資料に視線を落とした。
くだんの子の最も古いとされる文献と、昨夜桜が話した内容には、大きな違いはない。物語の成立は百五十年ほど前で、起源は実際に目撃され疫病を予言したとされる怪物「くだべ」にある。飢饉や冷害などを恐れる農耕民による固定信仰として定着した。
そのような背景のあるくだんを、いわゆる英雄的寓話と位置づける解釈もあった。
英雄という単語が目に入った直後、龍幸の脳によぎったのは今朝のゆわの様子だ。
例によって朝食&弁当作りに勤しんでいた最中、寝室から目覚ましの音が響いた。
数秒後、ゆわは飛び跳ねながら現れる。
「おとうさんおはよう!」
起き抜けのゆわはいつにも増してテンションが高い。
「おちゃわんおはよう!」「ふりかけおはよう!」「おとうさんのおしりおはよう!」と目に映る万物へ挨拶し、笑顔を振りまく。
ゲリラ的な元気のワゴンセール、冷蔵庫の食材一つ一つを相手にし出したあたりでいよいよ龍幸は危機感を覚える。
「セロリはおはよわない!」
「ガリドリ見たい人ーーーっ!」
魔法の言葉を叫ぶと、たちどころにゆわは居間へ駆けつけ、テレビから2メートル離れた場所で正座するのだった。
「さいしょからみたい!」
「あれ? 闘うところ見て、気分上げるんじゃなかった?」
「きょうはさいしょからみて、ヒーローのべんきょうする!」
龍幸の口からは自然と、水分の抜けた笑い声が発生した。
昨晩、龍幸と桜の前で高らかにしたヒーロー宣言。忘れてくれるかと期待した父だが、それは子どもをバカにしすぎというもの。
一度しっかりと、くだんの使い方を教えなければならない。
それは突き詰めればきっと善悪や倫理観など、いつかは理解させるべき価値観の涵養に繋がる。そう考えれば無駄なことではないと、理屈としては納得できる。
ただ誰がその教え方を知っているのか。
龍幸は逡巡の沼に落ちていく。
ガリドリのOPが流れると、ゆわは仰々しく龍幸へ頭を下げていた。
「おとうさんありがとう」
「おとうさんのおしりありがとう」
幼い子どもにとってのヒーローとは、それ即ち「なりたいもの」だ。ゆわに将来なりたいものを尋ねると、必ずガリドリがノミネートしている。それが最たる証拠だ。
それは非現実的ながら、多くの親は否定しない。むしろ笑って応援さえする。
存在自体が大きな嘘であるヒーローに憧れる子へ、親は当たり前のように小さな嘘を重ねるのだ。
ではもし本当にヒーローになれるなら?
自分の子どもに超常的な能力が備わっていたとして、それを利用してヒーローと呼ばれる人になりたいと言い出したならば、親はどんな反応をするか。
「ゆわは、ヒーローだったんだっ!」
この発言を聞いた際の龍幸は、少なくとも肯定的ではなかっただろう。それどころか悪寒と呼ぶにふさわしい感覚が身体を巡っていた。
現在進行形である子育てさえ、不安の中で戦っている。その最中、おそらく誰も経験していない役目を課せられたことに、ポジティブな感情など生まれるはずもない。
龍幸は「くだんの父」としての予備知識など、何一つ持っていないのだ。
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