第2話

 バターが溶け始めたフライパンに卵を流す瞬間、寝ぼけた神経が一気に冴え渡る。

 目と鼻と耳から認識する、1日の始まりの象徴的な時間だ。


 小窓から覗く雲一つない青空が、龍幸を迷わせる。

 バスタオルとゆわのパンツと靴下だけでも洗濯してから出るべきか、否か。


 変哲がないように思われたその日の最初のイレギュラーは、ノソノソ登場した。


「あれ、もう起きたの?」


 ゆわは目をこすりながら「おあよー」と応える。


「出るまでまだまだあるのに。もうちょっと寝てていいよ」


「いいー。テレビ見てるー」


 そうは言っても朝の情報番組には関心がないらしく、ゆわは再び台所に顔を出す。


「おとうさん、ガリドリみたい」


「あー、うん。ちょっと待ってて」


 薄茶色のまだらが浮かぶ卵焼きを皿に移し、龍幸は早足で居間に向かう。


 ハードディスクに録画されたガリドリ最新回を呼び起こす。

 そこへ、ゆわから更なる注文が飛んだ。


「へんしんするとこからがいい」


「最初からじゃなくて?」


「たたかってるとこみて、あさからきぶんあげるの」


 娘はメンタルコンディションに勤しみ、父は再び朝のタスクに追われる。


 2人分の弁当と朝食を同時進行で作り、隙間時間で洗濯機を働かせる。

 弁当箱に卵焼きや昨晩の残り物を詰めて冷ます間に、父娘はそろって着替える。


 ゆわは弁当の中身を覗き無邪気に一言。


「きょうのおべんと、ちゃいろとくろがいっぱいね。きいろもあるね」


「……緑と赤は、夜ごはんで補完しようね」


 扉に鍵がかかったことを二度確認し、龍幸は中古の軽自動車に乗り込んだ。

 GW明けだが、ゆわから気だるい雰囲気は感じられず、密かに安堵する。


 田園よりも住宅が多く見られるようになった頃、龍幸は1枚の看板に気づく。


「あ、ここピアノ教室だって」


 ゆわは最近、習いごとに関心を示している。

 幼稚園から持ち帰ってきた興味だが、友達はみな別の種目をやっているらしく、特別やりたいものは見つかっていないようだ。


「リンちゃんのお母さんに聞いたんだけど、牛古市にも色々あるらしいよ。運動だとバレエとかサッカーが人気なんだって。あとはピアノとかお絵描きとか……」


 龍幸は収穫した情報をとうとうと提示するものの、ゆわの反応は期待と異なる。

 返事はどれも気が抜けていて、すべて耳から耳へ素通りしているようだ。


「ゆわ、習いごと興味なくなっちゃった?」


 ゆわはびっくりしたような顔で首を振った。


「あっ、ううん! ちょっとむずがしいことかんがえてて……」


 興味をそそる返答である。龍幸は迷わずその内容を聞いてみる。

 だがそれは想定よりも、遥かに「むずかしいこと」であった。


「なんでガリドリって、みんなにいわないのかなぁ」


「え? みんな……あぁ、なんで正体を隠すかって?」


 頷くゆわの純粋な瞳が、バックミラーに映る。

 面白いところに着目するなぁとの感心、そしてどう答えるべきかとの焦燥が巡る。


 子どもは時折このように、大人であれば当たり前な世界の小さな疑問を掘り起こし、あまつさえ親は何もかも知っているものだと勘違いして尋ねてくることがある。


 抜き打ちテストのような時間が、またもやってきた。


「ゆわがガリドリだったら、みんなにいったほうがすごいっていわれてうれしいし、みんなもたすけてほしいときにたすけてっていえるから、いいなーっておもう」


 舌足らずな正論を前に、龍幸は思考をフル稼働させる。


「うーん……たくさんの人が助けてって言ってきたら、困るからじゃない?」


「えー、ガリドリならできるとおもう」


「あとは、家族とか友達が敵に襲われる、とか」


「ガリドリなら、みんなたすけられるよ」


 ゆわが求めるガリドリ像には、途方もないバイタリティが備わっているようだ。


「いやー大変だと思うなぁ、ガリドリだって人間ですし……」


 この回答にゆわは、納得していない顔で「うーん」と唸るだけ。反論はなかった。

 

 これ以上の議論は関係の悪化に繋がりかねないと、子どもながらに思ったのか。

 妙な形で垣間見た子どもの成長に、父は複雑である。


 登園時間開始からすぐの幼稚園は、かりそめの静けさに包まれていた。

 

 ゆわは友達を見つけると「おはよー!」と駆けていく。

 時間もギリギリなので、龍幸は担任への挨拶を短めに済ませ、踵を返した。


「おとうさん!」


 しかし何故か、呼び止められる。

 ゆわは教室に入って10秒もしないうちに戻ってきた。


「どうしたの、ゆわ」


「おとうさん。きょう、はやくおむかえこない?」


 上目遣いである。これはきっと質問の皮を被った懇願だろう。

 ただその意図はわからず、聞いても要領を得ない回答ばかり。


「ゆわはぜんぜんこわくないけど! はやくきたほうがいいの!」


「怖い? 怖いことがあるの?」


「こわくないっていってるし!」


 ゆわはそれを捨て台詞に、ずんずん教室へ戻っていった。

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