第35話

「きょう、ハナちゃんのミライみた」

 ゆわは重い口を開き、話し始めた。


 ハナが多江やゆわらの話を障子の陰から盗み聞きし、それがバレた瞬間のこと。頭に未来の光景が流れたという。


 では、ハナの未来とは。


「おばあちゃんがベッドでねてて、ハナちゃんとリューコさんがいた。あと、おいしゃさんも。みんなないてて、ハナちゃんはずっと、キライっていってごめんなさいってあやまってた。それとさいごにおいしゃさんが、じゅうがつじゅうしちにち、にじゅうじさんじゅっぷん、なんとかっていってた」


 龍幸はその時、呼吸すら忘れるほど、思考が真っ黒に塗り潰されていた。


 その未来の情景が何を意味しているか。

 そんなことわかりきっている。


 ただ、信じられないのだ。

 あと1ヶ月ほどで、多江がこの世を去るなんて。


「よくわかんないけど、ハナちゃんはすごいないててかなしそうだった。だからゆわは、ハナちゃんとおばあちゃんがなかなおりできるように、がんばるよ」


 ゆわは理解していない。ゆわは自身の母親が亡くなった瞬間にはその場にいなかった。つまり彼女はいまだ、人の死に直面した経験がないのだ。


 耳をすませば、ゆわの方から安らかな寝息が聞こえてきた。 




 龍幸が胃痛を自覚したのは、幸い職場が休館日となる月曜日だった。


 ゆわを幼稚園まで送ると、その足で診療所へ向かった。そこでバッタリと遭遇したのは、ある意味で今一番会いたくない人物だった。


「あら、今日は1人?」


 多江は診療所にいるのが不思議なほど、快活な笑みを龍幸に向けた。


 待合室での多江は、常に誰かとおしゃべりしていた。同世代の男女にゆわと同じくらいの子ども、看護師や清掃員までも彼女を前にすると自然な笑顔が生まれる。そこにいるだけで人が集まり会話が生まれる、太陽のような存在だった。


 あんな元気で、誰からも愛されている女性が、あと1ヶ月あまりで亡くなる。


 悲しみ、驚き、嘆き。どの感情が正解か。どんな顔をすればいいのか。


 何より、それを知っている自分は、何をするのが正解なのか。


 不意に、多江と目が合った。

 彼女は龍幸の元に歩み寄る。


「このあと帰るだけ? それなら私も乗せていってよ。バスは疲れるの」


 龍幸が了承すると、多江は人懐っこい笑顔を返した。


 陽が南の空に昇りかけた頃、龍幸は多江を後部座席に乗せて駐車場を出た。


「そういえば最近、ゆわちゃんが幼稚園でもハナと仲良くしてくれてるってね。流子が言ってたわ。ありがとねー」


「なんでも、多江さんとハナちゃんを仲直りさせるために頑張ってるみたいですよ」


「えー、そうなの?悪いねぇ」


「やっぱり今も、ハナちゃんは怒ってるんですか?」


「そうだね。あの子はワガママな上、根に持つタイプね。流子よりも私に似てるわ」


 遊園地に行く約束を反故にした。

 そんなきっかけで始まったハナの不機嫌は、もう2週間になると言う。


 多江はこの問題に関しては、一貫してドライだ。


 きっと多江の死因は事故などでなく病気だろう。あるいは既に宣告されているのかもと考えていたが、もしそうならハナへの接し方に違和感がある。


 孫との時間も残りわずか。

 そう考えているなら、すぐにでも仲直りしたいはずだ。


「龍幸くんは胃痛、どうだったの?」


「あ、えっと……そんな重くないみたいで、薬で様子見です」


「なら良かった。胃の病気は甘く見ていたら怖いからね。気をつけなくちゃ。今は冷たいものとか辛いもの、食べちゃダメよ。飲み物も水じゃなく、白湯ね。それとショウガ湯が胃に良いのよ。作り方は……」


「多江さんは……」


 龍幸は期せずして、少し強引に話題を区切ってしまった。


「多江さんは、何の病気なんですか……?」


 さりげなく尋ねようとしたが、タイミングも口調も不自然なものとなった。龍幸は自分の首を絞めたくなった。


 恐る恐るバックミラーを見る。

 多江は困ったような、しかしどこか達観した顔で、龍幸を見つめていた。


「……流子から聞いた?」


 鼓膜から脳へぬるりと這うような、落ち着き払った声だ。龍幸が返答に困っていると、すぐさま付け加えた。


「いや、こんな田舎じゃすぐ耳に入ってくるか」


 そうして多江は龍幸に告げた。

 およそ1ヶ月前に、ガン告知されたこと。

 余命は数ヶ月と宣告されたこと。

 延命治療も可能だったが、それを断ったこと。


 理由は、流子とハナのため。


「ただでさえ仕事と育児で大変なのに、私の世話まで加わったら、あの子が体壊しちゃう。娘に迷惑かけるくらいなら、さらっと逝きたいわ。何年かしたら死に際さえ思い出せなくなるくらい、さりげなく。死に行く人間として、そうありたいわ」


「……僕の妻も似たようなこと言ってましたね。残された人は最低限の思い出だけ持って、あとは忘れていい。去りゆく人間には冷たいくらいがちょうどいいって」


 多江は歯を見せ、大声で笑った。

 まるで、懐かしむように。


 彼女もまた、この町で生きていた空をよく知っているのだ。


「あの子ならそう言うだろうね。変わっていたけど、不思議な魅力がある子だったわ。まさかあの子よりも長生きするなんて、思いもよらなかった」


 多江の口はまるで世間話をするように、より滑らかに動く。


「人の死なんていっぱい見てきた。家庭によって悲喜こもごもだったけれど、大抵辛い思いをするのは残された方。そうでしょう?」


「……はい」


「そんなのばっかり見てるとね、何も残さず旅立つ方が、幸せとさえ思えてくるの。死に行く人が生きていく人のためにすべきことなんて、結局は何もないのかもね」


 それは多江の、紛れもない本心だろう。

 死を恐れず、代わりに周囲の人々の立場を意識して、理想的な死に向かう。実に多江らしい、さっぱりした死生観だと言える。


 しかし龍幸は、その超然とした多江の様子に、底はかとない違和感を覚えた。


「多江さんは……死が怖くないんですか?」


 口にした直後に、不躾な質問だったと龍幸は我に返り、バックミラーに目を移す。


 そこに映っていたのは、愛される強きおばあちゃんの、弱々しい笑顔だった。


「怖いわ。本当に、怖い」


 それは絞り出すような、静謐な声。


「その時、どうなるんだろう。真っ暗になるのかな。何も聞こえなくなるのかな。死んだ後、私の魂はどこに行くんだろう。そう考えていると、どうにかなりそうになる。私って想像していた以上に、ずっと怖がりだったのね。最近そう思うわ」


「……すみません、そうですよね……」


 もう一度龍幸がミラーを見ると、いつもの精悍な表情に戻っていた。


「いやいや、気にしないで。恥ずかしいわー、弱々しいこと言っちゃって」


 取り繕うように早口になる多江。

 だが彼女の言葉に逆らい、龍幸の脳にはこの1分にも満たないやりとりが、深く刻まれていた。


 龍幸は逃げるように話題を変える。


「そういえばハナちゃんは、どうするんですか。今も怒ったままですよね?」


 その名前が出ると、多江は困ったように眉根を揉んだ。


「それねぇ。思いのほか不機嫌が長引いちゃってて、どうしようかしら」


「早く仲直りしましょうよ。多江さんから歩み寄ればきっと……」


「それはないわね。だって私は悪くないじゃない」


 スパッと、子どもの理屈のような言い分が飛び出した。


「そりゃショックかもしれないけど、あの言い草はないわ。ワガママにもほどがある。あんなんじゃ理不尽ばかりのこの社会で生きていけないよ」


「い、いやでも、もし仲違いしたままサヨナラってなったら……」


「別に良いわよ。あの子にとっても良い人生経験になるでしょ」


 達観した死生観を語った後、このどこまでも頑固な気性。龍幸は呆れて苦笑する。

 

 そうして心の中で、何だかんだ収まるところに収まれば良いなと楽観視。


 それができれば、どんなに楽か。


 仲直りできないまま、悲涙のお別れ。

 そんな未来を龍幸は、知っているのだ。


「でももし、ゆわちゃんが私とハナを仲直りさせてくれるのなら……」


 多江はまるで他人事のように、愉快な未来を願った。


「それはとっても素敵な最期になるわね」

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