第17話
「桜、あんたまだお父さんが家にいるの、慣れてないの?」
友達の問いに、桜は無言でもって肯定する。
解放感が弾ける昼下がりの教室。
クラスメイトらが浮かれるその中で、桜はひとり苦悶の表情だ。
「明日から夏休みなのに、そんなんで大丈夫かよ」
「だってうるさいし、面倒くさいしで……あーもう何で仕事行かないかなー」
「産休なんだから当然でしょ。あんたが学校いる時、お母さんに何かあったらどうするの」
これ以上ない正論に、桜は押し黙るしかなかった。
「そんなにイヤならお隣さんちでも行けば。ゆわちゃんと遊んでいればいいじゃん」
「志河さんは……ただでさえ最近は迷惑かけてるし……」
「変なところ気を遣うね、あんたは。それじゃね」
「えー、もっと話そうよー」
桜の懇願もどこ吹く風と、友達は去っていくのだった。
クレープ生地のように薄い雲がオレンジに染まる頃、桜は1人校舎を後にした。
最寄りのバス停までの道のりを闊歩する中で、桜はふと思い出す。数ヶ月前、雷雨の中で龍幸に拾われたのはこの道だった。
その日、桜はくだんに触れたのだ。
未来を予知する、くだん。
おとぎ話に出てきた存在が、まさかお隣さんちにいたとは。
能力を知っているのは龍幸と桜の2人だけ。
特別な人間になれたようだが、彼女の日常は大して変わることはない。たまにくだんなど忘れそうになるほどだ。
もっともっと、愉快なことになると思ったのに。つまらないなぁ。
バスを降り、家までの道すがら、志河家の前を通るとゆわの歌声が聞こえてきた。
「きょうのおかずはハンバーグ〜〜やったねやったねやったね〜〜」
繰り返されるこの歌の曲間を縫うように、聞こえるのは龍幸の声。
「いや違うよ」「焼き魚だよ」「現実受け止めて」
節々に冷静な指摘を入れていた。
この2人の距離感はいつでも自然で、同じ空間にいると胸が温かくなる。いつからか桜は龍幸とゆわの関係を、羨ましく思うようになっていた。
「おとうさんおなかすいたー。ごはんまだー?」
「まだまだ。6時にはできるよ」
「ろくじじゃん。とけいロクだよ」
「いや、今は5時半だよ。短い針で見るの」
「じゃあ、ながいハリはなんだっていうのっ?」
「えーっと、長い針は1で5分、2で10分になって……」
「1は5で2は10なのっ? ゆわそれおかしいとおもう!」
「いや、時計ってそういうものなんです……」
今日も子育てに苦戦する龍幸。
盗み聞きする桜は声を押し殺し、腹を抱える。
笑いがおさまったところで、彼女は志河家の前から立ち去る。楽しげなこの場所に後ろ髪を引かれながらも、我が家へと向かう。
この感覚は、友達の家の車に乗った時の違和感に似ている。
どうして人の家の車は、あんなにも居心地が悪いのか。どんなに友達やその家族と仲良くなっても、車に乗った瞬間、自分だけが異物だと思い起こされる。
異物は異物らしく、自分の居場所を求め、いつまでも彷徨い続ければいい。
家路は残り数十メートル。
途端に歩幅は狭くなる。
その日、おつかいを頼まれた龍幸は仕事帰りにスーパーへ行き、牧家へと直行。ゆわは率先して買い物袋を持ち、玄関先で呼びかける。
「かってきたよー」
桜は「ありがとー」と出迎えると、買い物袋を台所へ運んでいく。居間からも洋子の感謝の声が飛んできた。
「買い物は任せろって言って、味噌も醤油も忘れるんだよ。抜けてるわーあの人」
大笑いながら夫を愚痴る洋子。
その五郎は洗濯物を取り込んでいるようで、天井から絶えず足音が響いていた。
洋子は「やるかー」と立ち上がり、台所へ向かう。
「お料理して大丈夫なんですか?」
「桜に料理を覚えさせようと思ってね。私は指示するだけ。ゆわちゃんも手伝う?」
唐突な誘いにも、ゆわは「やるー!」と声を弾けさせた。
それからしばらく、台所から聞こえたのは3世代の女性たちによるかしましいやり取り。苦戦している桜の悲鳴や、それに対する洋子の大笑い。そしてゆわも必死なのだろう、慌ただしそうな声を発していた。
五郎は2階から下りてくると、「楽しそうだね」と微笑む。
ふと、台所からゆわの声が途切れた。
微かに「どうしたの、ゆわちゃん」「眠いの?」など気遣う声が聞こえる。
「ううん、だいじょうぶ。ちょっとまってて」
ゆわはこう言って台所を出ると、龍幸の元へ駆け寄ってきた。
「おとうさん、あのね……あっ」
ゆわは五郎を見かけると、不自然に言葉を区切った。そうして今度は龍幸の腕を掴み、部屋の外へ引っ張りだす。
「おとうさん。ゆわ、ミライみたかも」
「えっ、誰の?」
「ヨウコさんの。いたいーうまれるーって、かわいそうだった」
お腹をおさえて悶えるフリをするゆわ。龍幸は目を見開く。
「えっ、ほ、ほんとに見たの? ど、どこでっ?」
「そこのへや」
ゆわが指差したのは、先ほどまで龍幸がいた居間だ。
「いつか分かるっ? ほら、テーブルの上に日めくりカレンダーあるでしょっ?」
「うんと、さんじゅうだった」
「時間はっ?」
「ごじ、かな」
「ほんとにほんとに、産まれるーって言ってたっ?」
「ほんとうだって。サクラちゃんとかゴローさんが、ギャーギャーいってた」
そこまで聞くと龍幸は、力なくへたり込む。そんな父の姿を見てハテナを散らすゆわは、その予知がいかに有益か理解できていないようだ。
「でかした! ゆわ、でかしたぞ!」
龍幸が両手で頭を撫で回すと、ゆわは「うあー」と悲鳴を上げる。ヒーローくだんは事の重大さを理解していないのか、顔に笑みがない。
それどころか、どこか浮かない表情だった。
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