第9話

 8時過ぎ、父娘はようやく帰宅する。


 人心地ついたのち、ゆわはリンを泣かせてしまった経緯を話しだした。


 リンがピアノを弾いていた時、例によってくだんの能力で彼女の未来が見えたという。それは中林との話にあった、ピアノの発表会での出来事だ。


 リンは演奏している際、ミスしてしまう。

 頭が真っ白になったのか、彼女はその場で泣き出すのだという。


 これを知ったゆわは、すぐさまリンに進言した。


「リンちゃん、はっぴょうかいでしっぱいするよ。ちゃんとれんしゅうしなきゃ」


 この言葉が、リンにはイジワルに聞こえてしまったのだろう。


 話し終えたゆわは、この世の終わりのような顔をしていた。


「でも、ゆわは親切でそう言ったんだもんな?」


「……うん」


「じゃあ別に、そこまで落ち込まなくてもいいよ。ちゃんと反省すれば……」


 携帯が震えだす。

 画面に表示されたのは「中林さん」との文字列。


「お父さんちょっと電話してくるね」


 ベランダで通話ボタンを押すと、か細い声が聞こえてきた。


「この度はお騒がせして、すみません……」


「いえ、こちらこそすみません。こちらからお電話差し上げるべきでしたのに……」


 龍幸と中林は、娘の証言を共有する。


「先ほど話した通りですけど、リンは気が弱くて、少し強い言葉を言われるとすぐああなるんです。そこで度胸をつけるためピアノ教室へ通わせているんですけど、難しいですね」


「いや、ゆわもですね……たぶん本当の意味で人に優しくする意味がわかっていないから、こうなったんだと思います」


 子育て初心者である2人。

 ただ弱音を漏らすだけのやりとりになってきたところで不毛だと気づく。


 娘たちに謝らせる機会を作ろうと話をまとめ、通話を切った。


「うわっ!」


 屋内に戻ろうと振り返った途端、龍幸は声を上げる。


 こちらをじっと覗く小さな影。

 いつから聞いていたのかゆわは不安そうに体を縮こませていた。


「リンちゃんのおかあさん?」


「う、うん、そうだよ。リンちゃん、ゆわの言葉にびっくりしちゃったんだって」


 ゆわは「そっか……」と視線を落とす。


 ここまで落ち込んだゆわは、少なくとも牛古市に来てからは一度もなかった。だからこそ心を支え、また何がいけなかったのかを理解させなければならない。


 頭ではわかるが、いまだ戸惑っている。


 何故ならゆわに悪気はなく、まして善意がもたらした事態なのだから。


 またも龍幸はこの命題に直面した。

 あるいは問題から逃げてきたため、命題の方から追いかけてきたのか。


「ヒトにやさしくするのって、むずかしいの?」


 やはり、中林との会話を聞いていたようだ。


「……そうだね。優しくするのはとてもいいことなんだけど、たまにその優しさが人を傷つけることがあるんだ。わかるかな?」


 ゆわはうつむいたまま首を横に振り、震える声で言葉を紡ぐ。


「でもゆわのせいで、リンちゃんがないちゃったから……そうなんだっておもう」


「うん。それだけわかってくれれば……」


「でも、なんでないちゃったのかな」


「え、何でって……言い方かな」


「どこがイヤだったの?」


「失敗するかもっていうのは、イヤだったのかなあ。せっかく頑張ってるのにって感じで……練習しなきゃっていうのも、偉そうというか……」


「じゃあしっぱいすること、どうやっていえばいいの?」


 矢継ぎ早に質問するゆわ。

 失敗から学ぶ姿勢は立派である。ただ龍幸の脳はすでにキャパオーバーで、思考は浅いところを漂い続けた。


「頑張れ、だけでよかったんじゃないかな。ゆわが頑張れって言えば、リンちゃんも頑張るぞって気分になって、いっぱい練習するんじゃないかな」


 その場を乗り切ることだけしか念頭にない回答には、ゆわも心の底から納得できていないようだ。眉間にシワを寄せながら、無理やりするように小さく頷く。


「でもねっ、今ゆわが考えてるのって、ものすごーく難しいことなんだよ。だから今すぐじゃなくても、ゆっくりわかっていければいいって、お父さん思うなぁ」


「ゆわはいまわかりたいの!」


 強い口調に、父は言葉を失った。

 言った本人も驚いたようで、ゆわは言下、怯えた表情を浮かべる。


 龍幸は優しく問いかけた。


「……何でそんなに、わかりたいの?」


 ゆわは、涙声でもはっきりと告げる。


「だってゆわは、ヒーローになりたい……」




 翌朝、対面したゆわとリンはどちらともなく頭を下げ合う。


 そのぎこちない空気感には、2人の親も苦笑する他ない。


「徐々に、ですかね……」

 中林がこっそり呟いた。


「そうですね……あんまり親が介入しない方がいいでしょうし」


「無事に終わってくれたらいいですけど」


「大丈夫ですよ。子ども同士って、びっくりするくらいあっという間に仲直りするじゃないですか。今回もきっと、そうなってくれますよ」


 そんな龍幸の楽観をつまはじくように、問題はズルズルと尾を引き続けた。


 夕方迎えに行くと、ゆわは朝と変わらない様子で佇んでいた。離れた場所からはリンがチラチラとこちらを伺っている。


 仲直りが叶っていないことは一目瞭然だった。


 普段はゆわから振ってくる幼稚園、そしてくだんの話も、むしろ避けられているように感じられた。


 夜、布団に入ってから数十分、ゆわはいつも以上に寝付けずにいた。


 そしてついに、彼女の心に詰まった感情が噴出する。


「ああぁぁ……うああぁぁ」


 泣き咽ぶゆわは、龍幸の体に力一杯しがみつく。


 龍幸の耳に響いたのは激しい息づかい、そして絶望を湛えた一言。


「くだんなんてっ、やらなきゃよかったっ……」


 娘の嗚咽を耳にしながら、父は何一つ、言葉をかけられなかった。

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