第8話

 あれから、ゆわは未来を見る度に善行を重ねた。


 東にイジワルをされている子あれば「こらー!」と叫んで乱入し、西にワガママ言って泣く子あれば「わかる」と囁き背中をさすり、南に再び小指をタンスにぶつけた父あれば「ガマンして!」と叱咤し、北にドラマの録画を忘れたピンク髪あれば「ウチのフールーでみれば?」と諭す。


 不幸の価値観は相変わらず幼いが、八面六臂の活躍を見せていた。


 そんな日々にゆわは充実感を得ている。

 帰りの車内は毎日、その日の成果発表の場と化しているほどだ。予知が発生しない日は、見るからにつまらなそうだった。


 対する父の心情は娘と反比例し、日に日に不安が募っていく。解消するアテなき心配事に心を揺さぶられる毎日。


 ある日の父娘の会話が、現況を象徴していた。


「ゆわ、結局習いごとはどうするの?」


「うーん。くだんでいいや」


「いやそんな教室ないから……まず誰に習うのさ」


「おとうさんでいいよ」


 くだんの父の苦悩は続く。

 



 幼稚園へ迎えに来て、ママ友数人と世間話をしていた時だ。


 財布を職場に忘れてきた。

 ふいと気づいたその瞬間、龍幸の顔から血の気が引いていく。


 問題はお金でなく、免許証も入っている点だ。


「あらー志河さん、図書館からここまで免許不携帯で来ちゃったの。犯罪者ねー」


 こう笑うくらいママ友たちは軽んじているが、臆病な龍幸はそうもいかなかった。


「うーん……仕方ない、今日はバスで帰ります」


「真面目ねー志河さんは。警察と遭遇することなんて滅多にないでしょうに」


「何なら送っていきましょうか?」


「いえいえ、ウチまで遠いですし申し訳ないです。それにゆわはバス好きなんで」


 こんな時のために鞄には千円札を忍ばせているので、運賃も問題ない。


「ゆわちゃんといえば、最近ウチの子がゆわちゃんはスゴいって言ってますよ」


 1人がこう切り出すと、他のママ友たちも同調する。


「ウチのもそんな言ってたなー。ゆわちゃんかっこいいーって」


「ウチの子は優しいって言ってましたよ。あと、くだんがどうこうって」


 約束が守られていない現実に、龍幸は顔をこわばらせる。


「何か最近やけに正義感が強いんですよ。やりすぎないか心配なんですけどね」


「いいじゃないですか、正義感。かっこいいですよ」


「そうよ。ウチのなんてあの歳でもうひねくれてて、最近反抗的で大変なんだから」


 それを皮切りに、母親たちがそれぞれ子どもへの愚痴を披露していく。


「ウチの子は気が小さくて、ちょっとしたことですぐ泣いちゃうんですよ」


 そう嘆息するのは中林だ。

 彼女は目を細めて娘のリンを見つめる。

 教室でピアノを弾くリンの周りをゆわら子ども達が囲み、演奏を聞いていた。


「でもゆわは、リンちゃんは優しい言ってましたよ。あとピアノが上手だって」


「ウチのも言ってた。リンちゃんは可愛くてピアノできて、お姫様みたいって」


 龍幸らの言葉に首を振りながらも、中林の顔には隠しきれない喜びが滲む。


「そういや、リンちゃんの発表会に招待されたって言ってたけど、いいの?」


 1人の母親が尋ねた内容は、龍幸にも身に覚えがあった。中林は笑顔で頷く。


「ええ、ぜひ来てください。リンも幼稚園の友達がいれば安心するでしょうし……」


 その時、教室から泣き声が響く。


 涙しているのはリンだ。

 彼女はまっしぐらに母親の元に駆け寄った。


 抱きついて泣き続ける娘に、中林は動揺する様子もなく「もーどうしたの」と背中をさする。


 家庭ごと、親子ごとに悩みは違うのだ。

 龍幸はしみじみと思った。


「何で泣いてるの、リン?」


「うっうっ……ゆわちゃんがー……」


 ただし自分の娘が発端だった日には、ギョッとする他ない。


 龍幸が目を向けると、ゆわはビクッと体を揺らす。その反応と顔色から、事態に関わっていることは明白だった。


 事情を聞こうにもリンは泣きじゃくるばかりで、ゆわは何故か口をつぐむ。


 まずは親子で話を聞いた方がいいと、担任が助言する。龍幸と中林はその言葉に従い、騒然とした雰囲気の中、それぞれ幼稚園を後にした。


 普段と違う、バスでの帰り道。

 ゆわはひどく大人しかった。


 この町に住んですぐの頃、車窓からの眺めが好きだとゆわは語っていた。そんな記憶から龍幸は、気分転換になればと淡い期待を抱いていた。


 しかし乗車して数分後、龍幸は自身の愚かさを呪った。


 時間帯のせいか、混んできたのだ。

 嫌でも思い出されるのは、この町に来るきっかけとなった1枚の絵。


 都内の満員電車と酷似した状況に陥ったゆわは、龍幸にしがみつき顔を埋める。


「……おとうさん……きもちわるい、かも……」


 喉につかえたような声。

 蝋のような顔色をしていて、生気がまるで感じられない。


 慌てて龍幸は降車ボタンを押した。

 周囲にはトイレなどなく、住宅すらも数十メートル先にしかない。


 ゆわは耐えきれず、道路脇でもどしてしまった。


「ごめん、ごめんな」


 小さな背中をさすりながら、龍幸はそんな言葉しか出せない。


 龍幸に抱えられながら、ゆわは無言でじっとすがりつく。不意に、彼女はかすれた声で呟いた。


「ゆわ……くだんのせいで、リンちゃんなかせちゃったかも」


 その瞳は溶け入りそうなほど、ユラユラとたゆたっていた。

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