3-4
「でもね、あたしは野球がわからない。その『何か』を明らかにできそうになくてね」
榊先輩がポテトを咥えながら両手を広げた「降参」のポーズは、印象的に記憶に留まっている。
「隠し球」がよくわからないので複雑な話に感じるが、要約してしまえばさほど難しくなさそうにも思える。つまるところ、準々決勝に出場してからというもの斉木先輩の様子がおかしいので、その原因を準々決勝に遡って発見したいのだ。
肌寒い渡り廊下を歩いて、調理室の前に立つ。最後に訪れたのは二週間前、学校生活においてはさほど長くない間隔なのだが、ここに来るのは久々に思える。球技大会を挟み、祝日による連休もあったからかもしれない。
扉に手を掛けたとき、榊先輩の言葉が思い出される――「誰しも一度会って話したなら、すれ違うだけの他人ではいられなくなる」
まったく、その通りになってしまった。
引き戸を開くと、がらり、とことのほか大きな音を立てた。それに気がついて、放課後の調理室の主がこちらを振り返る。
「あれ、葉山じゃないか。また会ったね」
身体を捻る動きに合わせて、リボンがかわいらしく揺れた。
桜木先輩の装いには何度見ても違和感を覚えるが、初めてのときほど強烈ではない。少しずつ慣れてきてしまった。その代わりに、疑問が心の中で大きな割合を占めるようになってきた。
「あの……どうも」
「葉山も作って食べていくかい? きょうの献立は、グラタンだよ」
「あ、調理部ってお菓子以外も作るんですね」
「もちろん。ホワイトソースから手間をかけて。やるからにはしっかりとね」
そういえば、以前クッキーを作りつつ、材料費が余っているのだと話していた。昨年までそれなりに人数のいた部の予算を、半年分ひとりで負っているからだろう。「やるからには」という何度か聞いた台詞も、部の現状から出る言葉なのかもしれない。
準備室から現れた鮎川先生に挨拶し、一緒に料理をしてもいいと許可をもらう。
球技大会の時間割変更に伴い調理実習があったので、エプロンとバンダナを持参している。鞄から取り出したそれらを、桜木先輩と同じ仕方で身に付ける。上着を脱ぎ、リボンを外してから、エプロンの紐を腰に回すのだ。
グラタンの具材として運び出されたのは、鶏肉のほか、玉ねぎ、マッシュルームなどの野菜であった。
「さて、下拵えしがてら話せるよね。何か面白い話題でも持ってきたのかな?」
慣れた手つきでワイルドに鶏肉の皮を処理する先輩が、玉ねぎの皮を剥ぐわたしに問うてきた。彼のほうがよっぽど大変な作業をこなしているのに、わたしの魂胆を探ろうとする余裕ぶりには驚嘆するほかない。
「あっハイ。実は、気になっていることがあって先輩に訊きたかったんです」
きのう、榊先輩と別れてから桜木先輩に話を切り出す方法を考えていた。ここまでは順調、計画通りである。わたしが突然調理部を訪問すれば、彼はわたしに何か話題があると踏んで問うて来るだろう、と。
涙を流さぬよう注意しながら、玉ねぎを切っていく。
「桜木先輩は、野球、わかりますか? わたしはよくわからなくて」
うん、と彼はちょっと驚いた様子で頷く。
サブカル漬けの後輩から、スポーツの話題を振られるとは思っていなかったのだろう。
「『隠し球』がどうして騒がれているのか、知りたくて」
「ああ、そういうことか。校長が声明を出すくらいの騒ぎだから、僕も気になっていたよ」
彼は「隠し球」のルールも説明してくれた。
隠し球はその名の通り、守備側がボールを隠して行うプレーだという。攻撃側の選手をボールを持った守備側の選手がタッチするプレーが、野球の守備の基本。そこで、攻撃側の選手を出し抜いてタッチするトリックプレーが「隠し球」である。
なるほど、確かに卑怯なプレーのようだ。「正々堂々」を押し出す高校スポーツなら、問題になっても当然のようだ。
ところが、桜木先輩は擁護派であった。水を張った鍋に火をかけると、自らの語気も熱くなる。
「でもね、立派な頭脳プレーだと僕は思うよ。相手が目線を切っているところを狙うのは簡単ではないし、やるほうも気を付けないと反則になる。特にピッチャーは、投手板を跨ぐような、次の投球に備えた動作を取るとボークという反則を取られて、一転して不利に立たされてしまうからね。チームで協力してこそ可能なプレーを、どうして卑怯と言えるだろうか」
つまり、斉木さんも隠し球に賭けるものがあったのだろう。
だとすれば、彼はどのような思いでトリックプレーに挑んだのか。そして、試合後の論争をどのように受け止めているのか。卑怯者とレッテルを貼られたことがショックで、人前で投げられなくなってしまったとも考えられる。
「ところで葉山」
沸騰して立ち上る湯気の向こうから、彼は問う。
「野球部の心配をしているのは、栞里先輩かな?」
わたしはブロッコリーを取りこぼした。
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