Episode 1 -- 調理部部長のリボン

1-1

「廊下を走るな」の掲示がふわりと舞いあがる。

 鞄に付けたパスケースや推しのラバーストラップが暴れるのを手で押さえ、階段を駆けて上る。一段飛ばしでリズミカルに、時に脚を伸ばして二段飛ばしにチャレンジしつつ。踊り場では手すりの端を握り、円を描くイメージでショートカット。

 教室棟と特別棟を繋ぐ渡り廊下は二階にある。教室棟四階のホームルームから特別棟四階の数学教室まで急ぐには、それなりの技術と体力を要するのだ。

 目的のフロアに着いたなら、駆け足から転じて忍び足に。教室を移動するのに体力を使い切ってはならない。それに、いくら急いでいても、張り紙で禁じられていることは禁じられているのだ。

 数学教室後方のドアを開く。特別な名前ではあるが、形は一般教室と同じ。生徒数次第ではホームルームにも使用できる、要するに予備の教室である。教壇にはビール腹が成長中の数学教師、駒場こまば先生が構えている。

「遅いぞ、葉山はやま

「すみません! 槇原まきはら先生がプリントを忘れたりして終礼が長引いてしまって――」

「説明よりまずは座れ。槇原先生にはあとで確認するから」

「あっハイ」

 丸顔をにこやかにして駒場先生が指し示したのは、最前列。しかも先生の真正面の座席。あんまり長く常連客を続けているものだから、特等席を用意されてしまった。

 バッグを抱えて狭い通路を通る。きょうはいつもより人数が多そうだ。遅刻してきたわたしを、くすりと笑ったりニヤニヤしたりしながら窺っている。担任の先生のせいで遅刻しただけなのに。運悪く、A組の生徒はわたしひとりだけだったらしい。

「よし、人数は揃ったな」指差し数えて確認を終えた先生が声を大きくした。手元ではプリントの角を揃えて、配布の準備をしている。「欠席と大会の奴を抜いても二六人か。文化祭後とはいえ、ちょっと残念だな」

 この場は、先日の中間テストの結果で再試験を課せられた生徒の集まりである。

 再試験は中間テストをもう一度受験するのと条件上ほとんど変わらない。カンニングなどの不正をはたらけば、中間テストの全教科がゼロ点になる。それは政治経済で教わったソキューショバツというやつじゃないかと思う。あれ、なんか違う?

 内容面でもそうだ。問題の半分は中間試験と同じものが、半分は趣旨が同じでも数字を変えられたものが出題される。数字が変更されるのは、難易度が低い問題が中心だ。つまり、ろくに復習をしていないわたしに言わせれば、ほぼ初見。

 二度目の中間試験など、いくら赤点――平均点の半分以下――を取ったからといって過酷すぎないか。しかも、七〇点に届かないと不合格で、さらに再試験となる。合格ラインが平均点より高いなんてひどい!

 ただし、希望があるとすれば時間だけは条件が違うということだ。定期試験であれば授業と同じ五〇分間しか回答できないが、再試験では無制限である。しかも、五〇分以内であっても回答を終えた時点で退出が許される。

 なんとしても、早く終わらせてやる……!

 遅刻や説明のため予定より一〇分ほど遅れて、いよいよ配布が始まったとき、じんわりと身体が熱くなってきたことに気づく。廊下を走って移動してきたことで、だんだんと体温が上がってきていたらしい。きょうは一〇月にしては比較的気温が高かった。

 手で顔を扇いでいると、わたしの前で先生が配布の手を止める。

「暑いなら、上着を脱げばいいだろう」

「あっハイ」

 ここ数年で制服のルールが緩和された天保高校では、衣替えの規則も緩やかになった。夏服、冬服それぞれの着用ルールさえ守れば、いつ、どちらの恰好をしていても校則違反を問われなくなった。先生に言われた通り、わたしは冬服の恰好から夏服の恰好になるため、ブレザーを脱いでリボンを外す。

 ブレザーを椅子の背もたれに掛け、リボンを鞄に仕舞うと、先生は問題用紙の配布を再開した。

「それじゃあ、合格目指して頑張るように」

 締まりのない号令で、再試験が始まった。



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