3-8

「ははあ、彼のやりたかったことはわかったぞ」


 ミトンを手に嵌めた彼は、オーブンを開く。美味しそうな具合にチーズが焦げていて、狙い通りの完成になったグラタンが顔を覗かせた。

 食べながら話そう、と彼が言うので、鮎川先生とともに食卓をセッティングする。調理室の奥、調理部部長と顧問とが毎週火曜日に風変わりなティーパーティーを開く、試食用のテーブルである。

 火傷が危ぶまれる熱々の仕上がりなので、冷水もグラスに用意した。

 桜木先輩は、エプロンはそのままにバンダナを外して腰掛けると、両手を合わせて号令をかける。

 わたしは、手にしたスプーンでグラタンを下から上へかき回し、しばし放置する。猫舌にとって出来立てのグラタンは天敵だ。

 先輩はふうふう言いながらなんとかマカロニをひとつ飲み下すと、「上々だね」と満足そうに呟いてから、ようやく本題を切り出す。

「それで、斉木が隠し球の瞬間に何をしていたかというと――」


 試合を引き延ばそうとしていたんだ。


 スプーンの先にチーズを引っかけて舐める鮎川先生も、桜木先輩の言葉をそう簡単には解せなかったらしい。ううん、と右に首を傾いだ。

「それはつまり、敗退行為ということかい?」

 試合は勝利目前であった。その状況から意図的に試合を引き延ばす行為とは、わざとピンチを招いたり、失点したりすること――すなわち、勝利を捨てるどころか敗戦をも招きかねないプレー――を意味する。最終回にかかる時間を長くするのに加えて、延長戦に突入しようものなら最高だ。

 わたしも、彼の意見を理解することができなかった。真面目で実力もある野球部のエースが、わざと負けたいと思う理由が想像できない。

 動機を問おうとしたら、桜木先輩が先んじて彼の敗退行為の方法を指摘する。動画を任意の位置で再生する。

 ふたつめの動画である。

「見てほしい。彼はサードの選手がボールを持っているときに、マウンドに戻った。これだけなら普通の行為だけれど、一度見切れてから、彼はそこでしゃがみこんでいる。この光景こそ、彼の敗退行為の証拠さ」

 画面を覗きこむ。しかし、ルールを憶えたばかりのわたしには、何が問題のプレーなのか見当もつかない。代わりに、鮎川先生が感づいた。


「そうか、ボークだね」


 ボーク――そんなルールもあった気もするが、何だっけ。付け焼刃の知識では難しい。

 桜木先輩は鮎川先生の回答に大きく頷いた。

「そうです、その通り。彼は投手板を跨いでいた、自分がボールを持っていないのに。このプレーはボークに当たる。もしボークが宣告されていたなら、ランナーには進塁権が与えられて、三塁ランナーがホームインすることになる」

 つまり、その反則が認められれば同点になっていたのか。

 それをわざとやっていたとすれば、紛れもなく敗退行為である。

「偶然ではないんですか?」

「ないと思うよ。だって、偶然だったなら彼がうずくまる理由がない」

 斉木さんは試合が終わったそのとき、最後にアウトを取られたランナーと同じように、脱力して地面に崩れ落ちていた。その理由は、単に試合終了にほっとして力が抜けたからだろうか。

 それとも。

「もしや、同点にできなかったのがショックで?」

「そうだと思うよ。わざと反則を取られようとしたけれど、隠し球の成功が早かったのさ」

 エースが突如抱いた逆心。

 わざと同点につながる反則をはたらき、それに失敗したときには落胆する。エースとして、いや、スポーツマンとしてあってはならない態度である。自らの勝利を捨て、ましてや勝利が消えることを望むなんて、真剣な勝負をしていない証拠だ。

 でも、仮にそうだとして、試合時間を引き延ばすことが目的だと、どうして言えるのだろうか。

「負けたかった、の間違いでもなく?」

「彼はピッチャーだよ? 気の抜けた球を投げて打たれたほうが手っ取り早い。もし隠し球のプレーが発生しなくても、別の方法でボークを取られるか、わざと暴投を狙っただろうね」

 そうか、ボークなら確実に一点だけを相手に渡すことができる。

 もしヒットを打たせようとして、味方がとんでもないエラーをしたり、誤ってホームランを打たれたりしたら? 相手高校はウラの攻撃だから、一瞬にしてサヨナラゲームになってしまう。ピッチャーが独断で行える敗退行為のほうが、手間はかかるが確実に延長戦突入を図れる。

 そういう意味では、隠し球は想定外のプレーだったのだろう。二、三塁のピンチから、自らの手で同点にしようとしていたのに、それより早く、味方が三つ目のアウトを取ってしまう可能性が発生した。だから咄嗟に、投手板に足をかけた。

 視界は晴れてきた。でも、問題は残る。

「じゃあ、どうして試合を長引かせたかったんでしょう?」



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