3.5-5
左腕で頬杖をついて問題文を睨みつつ、右手ではシャープペンの芯を出したり引っ込めたり。
時計をちらと見やると、すでに五時が近づいている。どうりで、部屋にほんのりと香ってきているわけだ。胡麻油か、山椒か、熱した唐辛子か――スパイシーな香りは、きょうの料理が中華料理だと知らせてくれる。麻婆豆腐、いや、担々麺とみた。
はあ、と大きく息を吐く。
「ほら、集中」
駒場先生が釘を刺す。教室はすでにマンツーマン。たった五人で始まった小テストの再試、わたし以外の生徒は回答を終えて教室を去っていた。
問題は最後の一問。θの値を求める三角方程式、もとはサインだったのがコサインに改題されている。
解けそうな直感はある、でも難しいものは難しい。集中できていないのだ。この問題を解き終えてしまって、そのあとのことを考えなくてはならなくなるから。そこで交わす言葉を、頭の中で予行演習したくなる。
「先生」
集中できないついでに、尋ねてしまう。
「サインとかコサインとか、勉強して役に立ちますか?」
勉強が嫌いだから、嫌いなものを無意味にしようとする同級生を多々見てきた。いま自分も同じことを口にしてみて、その気持ちがはっきりとわかる。やってみたところで甲斐のないことに、熱心になるのは難しい。
集中しろ、と怖い声が返ってくるかと思ったが、違った。恐る恐る顔を上げてみると、駒場先生はわたしを叱るどころかにっこりと笑っていた。
「役には立たん」
「はあ」
あまりにも、呆気ない。
「坂道の角度は測らないし、緻密な設計や製図とも無縁だからなぁ。カミさんの親戚には大工がいるから、婿入りしていたら別だったかもしれないが」
「…………」
「強いて言うなら、いまの仕事にありつけた」
砂を噛むような回答だ。
役に立たなくても必要な学びだ、と模範的な正論を振りかざさなかっただけマシかもしれない。とはいえ、彼は事実を言ったに過ぎない。専門性の高い高校の授業を受け持つ教員になれたのなら、確かにその道のプロではあるのだが。
先生は、照れたような咳払い。ちょっとしたボケのつもりだったのかもしれない。
「葉山。俺も高校生くらいのときは、葉山と同じようなことを考えたさ。いまでも、『勉強して我慢を身に付ける』とか『専門的に学びたくなるよう基礎を得る』とか主張する仕事仲間と話すと、意見が合わないと感じる」
そういうことを言う先生には何人か心当たりがある。顔は思い出せない。天保で出会ったのか、公立の小学校で出会ったのかも忘れてしまった。つまりその程度の先生だったのだろう。
「俺なりに答えを探してはいるが、どれも正しいと実感できない。どれだけ考えても、人生どう転ぶかわからないから勉強して備えておく、という結論に至るのがオチだ。俺はそれで納得できるかもしれないが、葉山たち現役の高校生には響かない。自分が高校生のころだったら、『そんな保険は恰好悪い』とでも言って認めないだろうな」
「…………」
「だが、せめて言えることはある――できないこととやらないこととは違うということだ」
「…………」
「できる、できないは能力の話で、やりたい、やりたくないは意欲の話だ。別次元のことを分けずに考えると、やりたいことをできないし、できることをやりたくなくなる。さて、そうしないための冷静なアタマは、どうやって身に付けるんだろうな?」
ビール腹の先生は、またしても滑稽に咳払い。
「……うちのカミさんがね、哲学科の卒業で、小難しいことを好んで話すんだ。いまの話は全部うろ覚えの受け売りだから、話半分にしてくれ」
口許に歯を覗かせつつそう言うと、彼はわたしの手元を指さした。「もう解けているだろう?」と、無言で問うている。
先生の直感は正しく、問題はすっかり解けていた。
採点してみれば満点で、補習から解放される条件をクリアしていた。赤ペンのキャップを閉める先生の「それみろ」と言わんばかりの表情は、わたしがいつも「できるのにやっていない」からだろうか。
自分自身のことは案外わからないものだが、もしそのような性質をわたしが持っているとしたら、先輩たちの言葉にも頷けてくる。
「話をする前提がまだできていないみたい」
「本来の利害関係者のためにならない」
「理解してもらうには時間がかかる」
数学教室を出れば、辛味の刺激を感じる中華の香り。
彼に会うにはまだ早い――調理室の扉に背を向けた。
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