4-10

 江森は地元の公立中学校に通っていた。だから、バスや電車を使った通学も初めてだったらしい。満員電車自体が江森にとって相当な負担だったろうから、そのうえで被害を受けたときの恐怖や不快感は、想像するに余りある。

 曰く、その日で三回目の被害だったそうだ。偶然なのか、狙われてしまっているのかは、江森の話からはわからなかった。だが、本人は、最初に怖くて声を出せなかったせいだと自分を責めていた。容姿を自画自賛できるような江森が、だ。その話を聞いていなければ、僕はうっかり「嫌なら被害を訴えるべきだ」と言ってしまうところだった。

 それでも、女性専用車両に乗る気はないのか、と訊いてみた。いや、その質問も充分無神経なことくらい、いまだったらわかる。当時は、解決法を提示してみたかったのかもしれない。ある種の自惚れだ。

 江森の答えは「嫌」だった。話を聞く限り、高校生が利用するものではないと思い込んでいるようだった。無理もない、学校ではしょっちゅう「ブスやおばさんに限って女性専用車両に乗る」と噂されていた。そういうことを言う奴に、男女の境はない。男も女も、安心を望むことを意味もなくバカにする。朝の窪寺駅には天保の生徒で溢れるから、江森は女性専用車両から降りるところを同級生に見られ、からかわれる屈辱を恐れていたように思う。

 加えて、江森は女性専用車両に乗っても何も解決しないと言っていた。電車とバスを乗り継いでいるから、電車はマシになってもバスでの被害はどうしようもない。さらに、江森はすでに階段での覗きの被害も受けていた。駅構内での犯罪まで、女性専用車両では防げない。

 通学そのものが恐怖になっていた江森にとって、もはや自己防衛の気力は残っていなかった。遅刻や欠席の原因はそれだ。親や教師にも相談していたらしいが、励まされるだけではこびりついた不安が取り除かれず、根本的な解決や妥協の策も提示されないからと、不満を口にしていた。

「じゃあ、どうするんだ?」と言ってみた。傲慢にも、煮え切らない態度だと感じていた。

「わからない」と江森は言った。「どうしようもないよ」とも。

 その日は、話をしただけで別れることにした。誰に相談するでもないからね。僕は遅刻して登校し、江森はどうしようもなく気持ちが悪いので、家に帰った。別れ際、自分が痴漢に遭っていることは学校で黙っていてほしいと念押しされたよ。



 以来、江森には何度も声をかけることになったよ。

 電車や駅で気持ち悪くなると、よくベンチや待合室で休んでいた。良くも悪くも事情を知っているから、お節介とは思いつつ、放っておくことができなかった。朝なら遅刻寸前まで粘ったし、放課後なら同級生の少ない時間くらいは言葉を交わした。

 最初のうちは睨まれたよ。プライドの高い江森のことだ、情けをかけられたと思ったらしい。僕以外の助けも断っていたんじゃないかな。でも、何度かそういうことがあると、愚痴を漏らすようになった。

 愚痴は、まあ、筋の通った主張から感情的な罵倒まで、何でも言っていたよ。批判する相手は、加害者はもちろん、傍観者や同級生、庇ってくれない親や教員といったあたり。そうそう、町田や僕のことも。

「声を出されなければオッケーだと思っている」「逃げればいいんだから楽な仕事」「女を触る男はいても、逆はいないのが笑える」「放っておく奴らは共犯者」「励ますだけで策はない」「よくあることは事件にならない」「所詮は他人事」「友達かもしれないけれど味方ではない」

 ――いま思い出してみると、言い放題だな。

 その中で、ぽつりと言ったことがある。もう夏になるころだった。


「カワイイ恰好をするのは好きだけれど、そういう目で見られたいわけじゃない」


 制服の話だった。

 最初に言ったように、江森は制服を気に入っていた。天保高校を受験先に選ぶ決め手のひとつになったくらいだ。ちょうど制服が選択制になった年度だから、相当魅力的に感じていたに違いない。

 その制服についてそんなことを言うものだから、

「女として見られるのが嫌なのか?」

 と僕は訊いてみた。

 性的な被害に遭っているのだから、その原因となる「女である自分」を否定しているように聞こえたからだ。女子制服は好きでも、そのせいで性的な視線を向けられていることを拒んでいるのだと思った。気持ち悪い、と何度も言っていたこともそう思わせた。

 僕の問いに、江森は首を振った。

 江森の意見は、どうやらこういう意味だったらしい――カワイイ恰好をしたカワイイ自分こそが好きなのであって、カワイイと褒められたいわけではない、と。本質的に好きなのは、カワイイもの自体やカワイイと囃されることではなくて、カワイくなれる自分自身。あくまで、全部自分のためなのさ。

 しかも、「女の子らしい」とか「女の子っぽい」とかを追求したいわけではない。自分を見栄えよく飾れるモノこそ、江森にとっては「カワイイ」の基準だった。だから、訊いてみると、できることなら制服も自分に似合うように着たいと考えていた。

「私にはスラックスのほうが似合うと思う。女の子をアピールするプリーツ入りのスカートだと、私にはちょっと甘ったるすぎる。お人形みたいになっちゃう」

 江森ははっきりとそう言ったよ。江森に言わせれば、制服もお洒落すなわち自分を引き立てるアイテムだ。

 そして、冗談めかした。

「スラックスを穿いていれば、もう触られないで済むのかな?」

 嘲って笑っていたから、本気で言っていたわけではないだろう。でも、僕はその言葉に可能性を感じた。決して正攻法ではなく、成功する保証もなければ、根本的な解決にならないおそれもある。それでも、提案してみれば、江森にとっても悪い話ではないと感じられた。


「男子制服を着たいと申し出てはどうだ?」


 僕の提案は、その時点では校則違反ではなかった。



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