4-2
お風呂を済ませ、自室でひたすら眠くなるのを待つ時間。
この自由な時間を、かつてわたしは創作の時間にしていた。わたし程度の知識で無謀にも、小説を描こうとしていたのだ。大学ノートをネタ帳にして、いろいろな妄想の断片を殴り書きした。そのノートは、すでに処分してしまったと思う。
中等部の後半以降、そして高等部に上がった現在では、利用方法が変わった。ゲーム、漫画、アニメ、ネットサーフィン。
自由だからこそ、ろくに勉強に用いられなかった時間だ。
きょうも、勉強のためにこの時間を使うつもりはない。パソコンを立ち上げて、文書作成ソフトを起動する。これからわたしの為すことを「勉強」と表現する人もいるかもしれないけれど、そのような人とは解りあえないと思う。「勉強」という熟語で表現するには、創作的だとわたしには思われるのだ。
いままでに知ったこと、考えたこと、疑問に思うことなどを、思いついた順番で思いついたように入力していく。短文もあれば、長文もある。段落で区切ってみたり、矢印で視点の変化を表したりする。
榊先輩が答えてくれなかったふたつの論点。
彼と深い関係にある「誰か」が何者なのか?
桜木先輩は校則を変えるために異装や調理部入部といった行動しているのか?
畢竟、大切なのは前者である。「誰か」が明らかになってこそ、桜木先輩の目的が浮かび上がってくる。ただし、その為人を考えるには、彼の行動を遡るのが近道だ。
生徒会の目安箱への投書には「制服の男女の区別をなくすべき」
男子部員が所属していなかったから、調理部への入部を決めた。
男子生徒として男子制服を着用しながら、リボンをつけている。
これらから、彼の争点としたいことが「ジェンダー」や「LGBT」の問題であることは容易に想像がつく。
彼や周囲の人間が積極的にこの件を語らないのは、このような問題が背景にあるからに違いない。わたしだって、二次元の世界でそういうことを面白おかしく過剰に表現したものを好き好んで消費している。それでも、現実世界と空想とを混同してはならない、という程度の危機感を持っているつもりだ。
しかし、その危機感が健全に機能するほど、わたしに知識があるとは限らない。
だから、図書室で基本的なことを調べた。
まず、わたしたちが単純に「男」「女」などと区別する「性別」という概念は、より具体的に、細かく分けて把握されなければならない。日常的なその二分法は、実態とはかけ離れていて不充分かつ幼稚な理解である。
第一に、生物学的な性別、性差である「セックス」が挙げられる。遺伝子や身体の形質として現れる男女の違いをセックスと呼ぶことができるのだが、外見に現れるだけあってこれのみを以て性別、性差であるとされがちである。これでは足りないのだ。
第二に、社会的な性別、性差というものもある。「ジェンダー」と呼ばれるそれは、端的には「男らしさ」「女らしさ」として表出する。男子制服ではネクタイを、女子制服ではリボンを着用する規則は、ジェンダーの考え方に即しているといえる。社会において形成される規範であるために、時に指導や叱責を伴って、時に無言の圧力となって、この枠に収まりきらない人々を排斥する力を持つ。
では、その「例外」となってしまう人々はどのような人々か。「性別」を捉えるにあたって、生物的に持った形状や、社会からの規範では無視される部分がある。言うまでもない、心のはたらきだ。
「性的指向」と呼ばれる概念がある。性的魅力を感じる方向のことで、どの「性」を恋愛的に、性的に好きになるかを決定づけるものとして想定される。趣味や好みに留まる「嗜好」とは異なり、自らの意思で容易に変えられるものではない。そのため「男を好きになる」「女を好きになる」という方向性が、セックスやジェンダーと噛みあっていないとみなされる人々がいる。
LGBTと総称される人々は、その具体例となる。「L」すなわちレズビアンは女性を好きになる女性、女性同性愛者。「G」すなわちゲイが男性を好きになる男性、男性同性愛者。「B」すなわちバイセクシュアルは、男性も女性も好きになることがある両性愛者だ。もちろん、これに収まらない性的指向を持つ人もいるのだが。
「T」――トランスジェンダー。これは性的指向の問題とはまた性格が異なる。
セックス、ジェンダーでは括れない心の性別。自らがどの性別に当てはまるか、あるいは当てはまらないかを考える「性自認」――これがセックスやジェンダーと一致しない性質をトランスジェンダーと呼ぶ。
ただし、一致しない仕方は人それぞれだ。ゆえに、「トランスジェンダー」の語は総称に過ぎない。さらに踏み込んだ分類が可能である。
セックスと性自認が一致しない、トランスセクシュアル。身体の性と心の性が噛み合わない人々だ。ジェンダーと性自認が一致しない、狭い意味でのトランスジェンダー。他人から見られる性と心の性が噛み合わない人々だ。そして、自らのしたい服装の性とセックスやジェンダーが一致しない――トランスヴェスタイト。
女性らしい服装を選びたいが、自分の身体は男性である。男性らしい服装を選びたいが、周囲は自分を女性とみなす。異性の恰好をしたいのは、ただの好みの問題ではなく、心理的な安心や快適さに関わるからだ。
わたしが注目しなければならないのは、このトランスヴェスタイト。
桜木先輩が目指す校則の変更は、異性装を本来としたい要求と重なる可能性がある。
つまり、彼が重視する「誰か」の要求は、そのような性質からくるのかもしれない。
しかし、他者の性自認や性的指向を決めつけてしまっては危険だ。
必ずしも目に見えるものではなく、本来の性を表現したい気持ちを自他に抑圧させられている場合もある。いくつもの性質が重なっている例も忘れてはならない。自身でもはっきり説明できないことや、時間とともに変化することさえありうる。
だとしたら、身勝手な決めつけが孕むリスクは計り知れない。他者を傷つけてしまう無神経な発言は、意図的なものばかりが悪ではないのだから。
知識を整理して初めて気がつくことは多い。
わたしも無自覚な悪人だった。
わたし以外は、どうだろうか。
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