第27話 陽だまり〈side 恭介〉

 自分で言うのもどうかと思うが、俺はかなり良い性格をしていると思う。


 誰かにイラッときても大抵の事は流せるし、怒りも悩みも引きずらない。その場の空気はちゃんと読むし、誤ったらフォローするし、おどける時はバカのふりだって器用に出来る。


 世渡り上手は特権だ。

 ずっとそうやって生きてきた。


 ──けれど、彼女に抱いているこの感情だけは、どうにもコントロールがうまくいかない。



「……くっそモヤモヤする……」


「恭介、今日煙草多くねー? 何イライラしちゃってんのぉー」



 本日何度目になるか分からないほど訪れた喫煙所の壁に凭れ、くわえたタバコピースライトの煙を吸い込む。鳥羽もまた隣で煙を吐いており、「気晴らしにこの後どっかいく?」と問いかけられたが俺は首を振った。



「パス。暇じゃない」


「あれー、今日もバイト?」


「違う、別件」


「はー、出た出た『別件』。お前最近付き合い悪いよな~、俺が合コン誘った時も秒で断りやがってさ。いいっすねえ、可愛いカノジョがいる奴は!」



 鳥羽はわざとらしく語気を強め、皮肉を漏らす。カノジョじゃねえし、と胸の内だけで反論するが、俺はあたかも恋人が存在するかのような口振りで「お前も早くカノジョ作れば」と投げやりに返した。


 他人にハナコの事を「カノジョ」と称される度、心の中ではちげえし、と思いつつも、それを口に出して否定した事は一度もない。


 だって、俺達の関係は少し特殊だ。

 夜だけ家に招き入れ、ただ晩メシを食うだけの不思議な関係。


 そんなの素直に説明したって、鳥羽を筆頭とした馬鹿共から「体だけの関係ヤリモク」を疑われるのは目に見える。



(……俺は別にどう思われてもいいけど、ハナコまでそういう目で見られんのは、なんかムカつくし……)



 誤解を生むぐらいなら、恋人だと思わせておいた方が何かと都合がいい。ハナコは嫌がるだろうけど。


 そう考えると胸の奥がつきりと軋んで、また苛立ちが芽生える。


 俺はいつからこんなにイライラを引きずるようになったんだ、と自分に呆れた。ハナコがドルガバの香水の匂いを纏って帰って来て以来、どうにも胸がざわつく。



「……俺ってめんどくさ」


「え? 何?」


「いや、マジな話、俺って女々しくない? こんなんだったっけ、前まで」


「は、女々しい? 恭介が? いや似合わね~! お前、女にフラれたり浮気されてもいつもノーダメージだったじゃん。感情ないんかと思ってたわ」


「……だよな……」



 去るものは追わない、引きずらない。恋人が出来ても対応は常に淡白で、放任主義。嫉妬だってほとんどしない。


 ずっとそうだった。そうだったのに。



「……鳥羽さ」


「うん?」


「自分のカノジョが、男物の香水の匂いつけて帰ってきたらどう思う」



 小さく問えば、鳥羽はきょとんと目を丸めた。しかしすぐに眉根を寄せ、「え、俺絶対ヤダ!」と顔を顰める。



うつってヤツだろ? それって誰かと密着したって事じゃねーの?」


「……電車に乗って人から移ったんだと」


「いやいや、電車ってもたかが数十分じゃん。この辺じゃ満員電車になる事も少ねーし、そもそもそんな短時間じゃ、よっぽど相手がキッツイ香水つけ過ぎてない限り近くにいるだけで匂いなんて移らねーよ」


「……俺もそう思う」



 短くなった煙草を灰皿に押し付け、俺はまた煙を吐いた。鳥羽も同じく煙草を灰皿に捨て、「それさー、誰かに触られたりしたんじゃね?」と遠くに視線を向ける。



「痴漢とか、セクハラ的な。恭介のカノジョって居酒屋でバイトしてんだろ? 客のジジイに触られたのかもよ、あの子大人しいし。抵抗出来なさそう」


「……」


「ま、俺は何にせよヤダ。だって俺めっちゃ独占欲強いもん。好きな子が俺以外の誰かに触られるとか、マジで無理~」



 鳥羽は肩を竦め、溜息混じりに続けた。


 独占欲──その言葉に、つい眉根が寄る。


 これは独占欲なのだろうか。ハナコを独占したいって──そう思ってんのか? 俺が?



(……いやいや……)



 かぶりを振り、俺は凭れていた喫煙所の壁から離れた。


 脳裏で揺れるのは、黒いセーラー服と赤いリボン。長く伸びた前髪の奥で、へらりと目尻を緩める、下手くそな笑い顔。



(いくらハナコが、アキに似てるからって──)



 無意識のうちにそう考え、ハッと息を呑む。握り込んだ拳にはじわりと汗が滲んだ。


 ちがう、と俺は奥歯を軋ませる。



(……俺は、ハナコを、アキと重ねたりなんか……)



 目を泳がせ、違う、違う、と何度も言い聞かせた。


 同時に思い出したのは、初めてハナコに『晩ご飯』を振る舞った、あの日の事。


 暗い顔をして、今よりも痩せ細っていた“あの日”のハナコは、クマの目立つ目尻に涙の粒を浮かべて俯いていた。


 テーブルの上には、ハンバーグ。

 俺が作った、目玉焼きの乗ったハンバーグ。


 まるで陽だまりみたいな、オレンジ色の卵の黄身に、ぷつりとフォークを突き刺して。途端にとろりと溢れ出た卵液を、ハンバーグに絡めた彼女が口に運ぶ。


 そして、ハナコは言ったんだ。おいしいと言って泣きながら、『私にはもう何も無い』『大事なものが欠けてしまった』と。


 震えて泣き出したその姿は、凍りついていた俺の心を不思議と強く掴んだ。ずっと抑え込んでいた感情が呼び覚まされたのも、多分その時だったと思う。



『……あのさ。お願いがあるんだけど』


『……え?』


『1年──いや、半年でいい。半年間、夜だけでいいから、』



 ──俺と、“約束”して欲しいんだ。



 そう言って、かなり強引に約束を取り付けた。めちゃくちゃな事を言っていると自分でも分かっていたが、引くに引けなかった。


 それもやはり、ハナコに、アキの面影があるからなのだろうか。



「……俺、帰るわ」



 鳥羽にぽつりと告げ、俺は喫煙所を出る。背後から鳥羽が何かを言っていたが、それすら耳には入らなかった。



 ──早く家に帰りたい。彼女に会いたい。


 ──今日の晩メシは何にしよう。


 ──何を作ったら、彼女は笑うだろう。



 いつものようにそう考えて、ただ歩く。けれど俺が会いたいと考える“彼女”は、果たして本当に、ハナコの事なのだろうか。


 俺が本当に笑わせたいのは。


 俺が心から、救いたかったのは──。



「……アキ……」



 呟いたその名前は、もう二度と本人に届かない。


 俺の心にぽっかりと空いたままの穴は、まだ完全には塞がっていなかったのだと、暮れていく陽だまりの赤を目に焼き付けながら知った。




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