第3話 しょうが焼き

 じゅうじゅうと焼ける、香ばしい生姜の香りが鼻腔を通り抜ける。白いお皿には千切りのキャベツがこんもりと盛られ、くし切りにされた瑞々しいトマトが添えられていて、フライパンの上で踊るメインディッシュの到着を今か今かと待ちわびているようだった。

 もちろん、それを待っているのは野菜だけではない。私だって同じぐらい待ちわびている。


 彼の部屋へと入り、きっちり整理整頓された冷蔵庫から取り出されたタッパーの中身を見た瞬間に私は今夜のメニューを察した。刻み生姜と共に茶色い液体の中へと漬け込まれ、寝かせられていたであろう豚肉、そして玉ねぎ。


 香りから察するに、間違いなく──生姜焼きだ。



「すぐ出来るし、テレビでも見て待ってて」



 そう言ってさくさくとキッチンへ入って行った恭介さんは、買い物袋の中から次々と食材を取り出して素早く調理を始めてしまった。これはいつもの事である。彼は魔法のようなこなれた手つきで次々と食材を切って、焼いて、あっという間に盛り付けてしまうのだ。



「ハナコ」



 肉を焼く彼から不意に呼び掛けられ、振り向く。だからエリコです、って何度も言っているのに。「もうこれで覚えた」と彼は一度もその名を正しく呼んでくれた事は無い。

 まあそれはそれとして、呼ばれた私はひとまず彼の元へと歩み寄った。



「何ですか?」


「唐揚げ。もう冷めてるだろ?」


「……あ……うーん、そうですね。レンジに入れます?」


「いや、大丈夫。パックから出してそこに置いといて。どうにかするから」



 恭介さんはそう言いながら、頭上の棚の中に手を伸ばした。そこからニンニク一欠片を取り出し、まな板の上に置かれたそれを包丁の刃の側面で押し潰す。

 その後、どこからとも無く取り出された小鍋にニンニクを入れ、黒酢をとぷとぷと中に注いで火にかけた。程なくして刻まれた鷹の爪も投入され、コトコトと弱火で煮込まれていく。



「ハナコ、ピーマン嫌いだったよな」


「えっ、あ、はい……」


「おっけ。じゃあピーマンはやめとこ」



 そう言って彼はニンジンを手に取り、慣れた手付きでたんたんたん、と細切りにして行く。ニンジンを切り終わると次は玉ねぎに手を伸ばし、「うあー、目に染みるー!」とこぼしながらも、一玉を難無くスライスした。そしてまた、「ハナコ」と呼ばれる。



「その棚にさ、深めの四角いタッパーあるから、取って。白いヤツ」


「うぇ!? ……っあ、はい!」



 涙の浮かんだ目を押さえる彼から唐突に指示を受け、戸惑いつつも私は言われた通りに棚の中から白いタッパーを探し出した。それを手に取り、すぐさま踵を返す。



「も、持ってきました……!」


「ん、サンキュ。そこ置いて」



 ぱたぱたと駆け寄る私にそう言って、彼は小鍋に醤油と砂糖と酒を投入した。その小鍋を火にかけながら、切った野菜をタッパーに並べて行く。あれ、野菜は火にかけるわけじゃないんだ? なんて首を傾げる私を差し置いて、小鍋の中身はひと煮立ち。すると彼は火を止め、おもむろに振り返った。



「冷凍庫にさ、ラップに包んだ味噌が入ってんだよ。それ取ってテーブルに置いといて」


「……へ? み、みそ?」


「丸いボールみたいなヤツ。それ2つ置いといて、後で使うから。多分見りゃ分かる」


「は、はい」



 意味はよく分からなかったが取り敢えず頷き、私は冷凍庫へと駆け寄った。中を開けると、確かにラップに包まれたピンポン玉サイズの味噌の玉がいくつか並べられている。

 よく分からないまま私はそれらを二つ取り出し、食卓へと運んだ。



「もう出来るから座ってて」



 ふと、キッチンから声が投げられる。次いで漂って来たのは美味しそうな匂いで、酸味のあるその香りには覚えがあった。バイト先の居酒屋のメニューにもある、この香りは。



「南蛮酢……!」


「お、正解。唐揚げは南蛮漬けにしてみた」


「わぁ……すごい……!」



 食欲をそそる香りに思わずよだれが溢れる。それをゴクリと飲み込んだ頃、切り分けられてタッパーに並べられた唐揚げと、細くスライスされたニンジンと玉ねぎ、それから鷹の爪の彩りが美しい南蛮漬けが運ばれて来た。



「……本当はもう少し冷やして味が染み込んでから食うんだけどな。ま、少し濃いめに味付けたし大丈夫だろ」


「美味しそう……!」


「生姜焼きも出来たから、食おうぜ」


「はいっ」



 うきうきと両手を握り締め、私は椅子に腰掛けた。焙じ茶の入ったティーポットにお湯を注いだ頃、キャベツとトマトのお皿に盛り付けられた生姜焼きが美味しそうな香りを放ってテーブルに並べられる。



「ふわぁぁ……絶対おいしい……!」


「ザ・真夜中の生姜焼き。一丁上がり〜」



 にやりと不敵に笑む彼の言葉で、そういえばもう12時になっちゃうんだ、と現在の時刻を再認識した。こんな時間に揚げ物と生姜焼き……って、いいのだろうか。とてつもなく罪な味がしそう。



「ま、でも米も食うだろ?」


「もちろんですっ」


「即答かよ、躊躇ねえな……」



 苦笑いを返され、私はハッと口元を覆った。淑女たるもの、この時間帯の炭水化物にはもっと慎重になるべきなのでは? と己の発言を後悔した私だったが、時すでに遅し。目の前にはホカホカの炊きたてご飯が運ばれて来てしまった。



「……まーた妙なこと考えてたろ」


「え! い、いえ、そんなことは!」


「ばーか、嘘ついてもバレバレだって。お前考えてること全部顔に出るタイプだから」



 全てお見通しだと言わんばかりに恭介さんが嘆息する。程なくして、カトラリーケースと空のお椀を持った彼は向かい側の椅子に腰掛けた。


 ふと、私は先程持って来た丸い味噌の玉に視線を落とす。



「……あの、これは?」


「ん? ……ああ、それか。それは即席の味噌汁が作れる魔法のボール」



 そう言って彼はラップに包まれたそれを一つ取り、空のお椀に凍った味噌の玉を入れる。続いて、その中にポットのお湯を注いだ。



「出汁と味噌と具を混ぜてから凍らせとくんだよ。そんで食いたい時にお湯入れて、かき混ぜれば、ほら」


「……あ、味噌汁の匂い!」


「便利だろ? ネットで見つけた」



 あっという間にお麩とワカメのお味噌汁が出来上がった。私も同様にお湯を入れ、掻き混ぜる。



「……す、すごい……画期的……!」


「な? まあ、やっぱ普通に作るヤツより味は劣るけど、時間無い時は便利なんだよ。……それより、さっさと食おうぜ。冷めるし」


「はっ! そうですね!」



 私は味噌汁を掻き混ぜる手を止め、両手を合わせる。恭介さんも向かい側で同じように手を合わせた。



「いただきます」


「いただきます!」



 お決まりの挨拶が、二人の“約束”の合図。「毎日一緒に晩ご飯を食べる」──そんな珍妙な約束を交わしてから、約1ヶ月。私はまんまと、彼に胃袋を掴まれてしまっている。


 相変わらず綺麗に並べられた料理の品々をじっと見て、私はほう、と息をついた。まず、何から口を付けよう。お味噌汁は絶対まだ熱いから、後回し。



「よしっ、生姜焼きからっ!」


「よしっ、て何だよ。飯食う時だけは年相応に元気だよなお前」



 キャベツにドレッシングを掛けながら、恭介さんが呆れたように見つめてくる。何だか急に恥ずかしくなってしまって私は縮こまった。ご飯の時だけ年相応って、普段は一体いくつに見えてるんだろう。

 そんな事を考えながら、おずおずと私は生姜焼きを口に運ぶ。その瞬間、悶々と蔓延はびこっていた余計な考えはぱちんと弾けてどこかへ消えてしまったわけだが。



「おっ、おいしい……!」


「出た、大袈裟」



 ふ、と目の前の彼が笑う。ぱっと顔を上げて瞳を輝かせた私は、口の中の豚肉の柔らかさに感動していた。



「何でこんなに柔らかいんですか? いいお肉使ってるとか?」


「いや? 普通のスーパーの安い肉」


「ええ!? でも、すごい美味しい……!」


「弱火でじっくり焼いてるからな」



 強火で一気に焼くと硬くなるんだよ、と言いながら、彼は生姜焼きを白米の上にバウンドさせて口へと運ぶ。彼の生姜焼きにはおろし生姜だけでなく刻み生姜も入っていて、少し辛味が強いがそれがむしろご飯に合って丁度いい。天才か、と心の中だけで賞賛しながら私は黙々とご飯を食べ進めた。夜中なのに。罪深い。



「そういや、バイトどう? 慣れた?」



 ふと、恭介さんがそんな事を尋ねてきた。私はそれこそバイト先から頂いて来た唐揚げの南蛮漬けに箸を伸ばしながら頷く。



「はい、だいぶ。接客とか初めてで不安だったんですけど、スタッフの人もみんな優しいし……」


「……そ。良かったじゃん、ちょっと心配してたから安心したわ」


「心配してくれてたんですか?」


「そりゃするだろ、接客苦手そうだったし。最初に居酒屋でバイトするって聞いた時ビビったわ」


「あ、あはは……」



 接客苦手そう、という発言は否定出来なくて、私は苦笑いを返すしかない。苦笑したまま南蛮漬けを口に運べば、これも美味しくて瞳が輝いた。

 南蛮酢の酸味と甘味のバランスが絶妙で、冷めきっていた唐揚げが見事に新しい料理へと生まれ変わっている。天才か、と私は本日二度目の賞賛を心の中で呟いた。



「まあでも、慣れて来たんなら良かったな」



 ふと、恭介さんは安堵したように笑った。私は噛んでいた唐揚げを飲み込み、「そういえば、」と口を開く。



「今日、オーナーにも言われました。慣れて来たみたいで良かったって」


「ふーん?」


「……あと、よく笑うようになった、って」



 一拍置いて、困ったように言えば彼は一瞬言葉を詰まらせた。しかしすぐに「あー……」と目を逸らして苦笑する。



「……まあ、最初は、な。しょうがねーだろ」


「……」


「良かったじゃん、笑えてんなら。接客は笑顔って大事だぜ?」



 彼はへらりと笑って、「笑顔と言えば今日、お向かいの一軒家の婆ちゃんが朝からけたたましく笑っててさ、」と巧みに話題をすり替えた。私はその話をぼんやりと聞きながら、ようやく温度の下がった味噌汁に口を付ける。

 少し濃いめの暖かい味噌の味が、喉の奥へと滑り落ちて行って。濁った水面に、私の顔がぼんやりと映った。



(……そんなに笑うの、下手かなあ?)



 むに、と片手で頬を摘んでみる。元々社交的な性格ではないから、色々あるうちにいつの間にか表情筋が固まってしまってたのかも。


 生姜焼きは強火で一気に熱したら硬くなるんだって。


 だから私も、ゆっくり、こつこつ、弱火でじっくり練習すれば、ぎこちないって言われる笑顔も多少はマシになったりするんじゃないかな、なんて。



「……どう思います? 恭介さん」


「……ん? お向かいの婆ちゃんの笑い方のこと? 独創的だよな」



 ……そうじゃないけど、まあいいか。


 私もそう思います、と頷いて、私は柔らかい生姜焼きを口に運んだのだった。




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〈本日の晩ご飯/しょうが焼き〉

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