第4話 約束の賞味期限

 固く閉じた瞼の裏にチカチカと眩しい西陽が揺れて、私は「ううん……」と身じろぐ。ぱちり。瞳を開ければ、窓から差し込む夕焼けに照らされて、橙色に色付いた殺風景な自分の部屋が視界に映った。


 木目調の天井に、色褪せた襖、和室6畳間。そこに薄い布団を敷いただけで、あとは小さなダンボール以外何も無い。それが、今の私の部屋。


 一応間取りは1DKだから、襖の奥にも部屋はある。けれどそちらも状況は似たようなもので、飲み物を冷やすためだけのこじんまりとした冷蔵庫と、中古で購入した古い洗濯機が廊下に置いてあるぐらい。そんな状態のまま、結局1ヶ月が経過してしまったわけで。



(テレビが無くても、案外暮らしていけるものなんだなぁ)



 一人暮らしを始めてから学んだ新事実はそれだったりする。あって当たり前だったからテレビの無い生活など以前は想像も出来なかったが、無くなってみれば別に苦ではなかった。


 今年の3月から住み始めたこのアパートは、築年数60年ととてつもなく古く、リノベーションされているわけでもないし立地も悪いかなりの格安おんぼろアパートである。敷金礼金無し、水道代まで込で、月々の家賃はたったの2万円弱。

 でも実は事故物件で幽霊が出る噂なんかもあるらしく、本当にここでいいのかと不動産屋さんには何度か問いかけられた。けれど、当時の私はそんな事すら気にしている余裕も無くて、幽霊を怖がりながらもここに即決せざるを得なかったわけで。



(……まあでも、色々あって、結局このままダラダラ過ごしてるわけだけど……)



 はあ、と溜息を吐きながら項垂れてしまう。1ヶ月前の私が見たら失望するんだろうな。何やってるの、話が違う、って。


 私はおもむろに布団から立ち上がり、ダンボールの中に手を伸ばした。

 鉛筆、スケッチブック、ノート、……色々あるけれど、それらを全部無視して一番奥に眠っているものを掴み取る。


 ずっしりと重たい、一眼レフのカメラ。私はカチ、とゆっくり電源ボタンを押して、ダイヤルを「再生」に合わせた。

 保存されている写真のデータ数として表示された数字は、「1」。たった1枚、大きなカメラの中に保存されているその写真をそっと再生して、私は苦々しく微笑んだ。



「……ごめんね」



 呟いた声が、静寂に包まれた部屋の中で痛いぐらい鮮明に耳に届く。私はカメラの電源を切り、それを静かに畳の上に置いて、立ち上がった。




 * * *




「あ、ハナコ」


「……あ……」



 少しぐらい外に出ようと扉を開けたら、丁度203号室の前で恭介さんが煙草を吸っていた。こんにちは、と声を掛けようとしたところで、彼が通話中だと気付き慌てて口を閉じる。彼は短くなった煙草の灰をトントンと落としながら、電話の向こうの相手に口を開いた。



「……あ? ……いや、こっちの話。つーか俺、その件は断っただろ。今更文句言われても困るんだけど」


『……、……』


「ああ? 行かねーよ、バーカ! 勝手に怒られろ、俺は知らねー」


「……?」



 どうやら、彼は通話している相手と揉めているらしい。苛立ったように煙草に口を付けるその姿を怖々と眺めて、私はとりあえず部屋の鍵を閉めた。その間も、彼は通話相手と口論を続けている。



「とにかく、俺は行かねーから。他のやつ誘えよ」


『……! …………!』


「知るか。じゃあな、切るぞ」


『……~!! ……──』



 タンッ。


 苛立ちの込められた指先で乱暴に画面をタップし、彼は不機嫌そうに通話を終える。短くなった煙草をぐりぐりと携帯灰皿に押し付け、煙を吐いた頃になってようやく、彼は私に視線を向けた。



「……あー、ごめん。ちょっとうるせー奴から電話来ててさ」


「お、お友達ですか?」


「まあ、そんな感じ。同じサークルの」



 サークル。何気なく零れ出た単語で、ああ、やっぱり大学生なんだ、と私は一人納得した。

 だとすれば、大学のお友達からの電話だったのだろう。何かに誘われているのを断った風だったが、よっぽど嫌な集まりに誘われたのだろうか。



「……揉めてましたけど、大丈夫だったんですか?」



 何気なく問えば、彼は「あー、全然大丈夫」と吐きこぼす。



「今夜、先輩が幹事してる合コンがあるんだけどさ、それの人数が足りねーんだと。で、今の電話の奴が俺のこと勝手に参加するって先輩に言ったらしくて。断ったら泣き付いてきてマジでしつこいし、くっそ面倒くせー」


「あ、あぁ……合コン……」



 馴染みの無い単語に、自然と苦笑が漏れた。

 つい最近まで女子高生だった私にとって、合コンとかサークルとか、そういうのはなんだか未知の世界の話でいまいちピンと来ない。


 首を傾げている私の反応に気が付いたのか、恭介さんは「あー、ごめん」と失笑する。



「いきなり愚痴られても、そりゃ反応に困るわな。忘れて。ごめん」


「あ、い、いえ。……あんまり行かないんですね、合コンとか」


「……まあ、行く時は行くけど。今は別に出会いとか欲しくねーし……そもそもロクな女来ねーんだよ、いつも」



 そう言って、彼はうんざりした顔で遠くを見つめた。

 どうやらよほど嫌な思い出があるらしい。深く追及するのはやめておこう。



(合コンかあ……。一生行かないんだろうなあ……)



 ああいうのは、私のようなパッとしない女が行くものではない。もっとキラキラした、可愛い女の子が行くものなのだ。多分。


 そう考えると、自分のパッとしない見た目が酷く惨めに思えて、自然と溜息がこぼれてしまった。栗色の前髪は眉上まで切っちゃったせいで短すぎるし、顎のラインまでの不揃いな後ろ髪は毛先がバラバラでめちゃくちゃ。化粧だってしていないし、ネイルも塗っていない。


 あーあ、パッとしないな。



「……おい、また何か余計なこと考えてるだろ」



 ふと、彼が低く声を発して私はハッと顔を上げた。じとりと見下ろしている怖い顔。鋭い彼の目と視線が交わり、私は震え上がりながら慌てて首を振る。



「か、考えてません!」


「ほんとか? 誓える?」


「誓って考えておりません!」


「ふーん。……なら、いいや、別に」



 彼は小さく息を吐いて、錆びついた鉄柵に背を持たれると薄暗くなってきた空を仰いだ。恐る恐ると顔を上げれば、もうその表情は先ほどのような険しいものではない。ほっ、と私が安堵の溜息をこぼした頃、不意に彼はぽつりと呟く。



「……ビビった? ごめん」


「え? ……あ、いえ、別に……」


「……なんかてっきり、俺との破って、またふらっとどっか行こうとしてんのかも……とか思っちまって。ちょっと焦った」


「……」



 私はぽかんと、一瞬呆気に取られて黙ってしまった。ややあって、ああなんだ、そう考えてたんだ、と先ほどの牽制にも似た圧に少し納得する。



「……別に、どこにも行かないです。ちょっと外の空気吸おうと思って、出てきただけだから……」


「ふーん?」


「……信用してないでしょ」


「どうだろうなあ」



 揶揄からかうような態度に、むう、と私は唇を尖らせた。そんな私に、「でもまあ、」と彼は続ける。



「もう1ヶ月は経ったんだ。あと。それまではちゃんと俺に付き合えよ、そういう約束だろ?」


「……」



 あと“5ヶ月”。その言葉に私は少しだけ視線を落とした。


 そう、私と彼の“約束”には、がある。その期限日は、「毎日一緒に晩ご飯を食べる」と約束をしたあの日から、ちょうど6ヶ月後。

 つまり、私と彼は『半年間だけ、毎日一緒に晩ご飯を食べる』という約束を交わしていることになる。


 私は下に落としていた視線をゆるゆると持ち上げ、彼に向かって口を開いた。



「そんなに念を押されなくても、わかってるのに……。ちゃんと、今日もお腹空かせてますよ?」


「ふーん? じゃあ、遠慮なくお食事を提供させていただきます、ハナコ様」


「む……なんか、バカにされてる気が……。それに、私の名前はエリコです!」


「はいはい」



 彼はあしらうように返事をして、「ほら、早く部屋入るぞハナコ」とやはり正しい名前は呼んでくれないまま扉の向こうへと消えて行く。むうう、と私は頬を膨らませつつ、その後を追い掛け、彼に続いたのだった。




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