第5話 オシャカレー
実を言うと、今日のメニューは最初から分かりきっていた。だって、部屋の外にまで、美味しそうな匂いがふわふわぷかぷかと漂って来ていたんだもの。
誰もが知る、その香り。
春の暖かい風に運ばれて、私の鼻の奥にまで入り込んだ、お腹を空かせる王様みたいなそれは……。
「カレーだ!」
「大正解」
にんまりと、キッチンに立った恭介さんが口角を上げる。私は瞳を輝かせ、火にかけられた鍋の中をひょっこりと覗き込んだ。
大きな赤いお鍋の中では、キノコとナスの入った美味しそうなキーマカレーが煮込まれている。今日はバイトが無くてお昼ご飯は食べていないから、鼻腔を突き抜けて行くスパイシーな香りに「ぐぎゅぎゅ……」と思わずお腹が鳴ってしまった。
彼の作るカレーは、よくあるスタンダードな食材はあまり入っていない。いわゆるゴロゴロとした人参とか、ジャガイモとか、そういうやつ。その代わりに、とろとろに蕩けるまで煮込まれたナスとか、バターで長時間炒められたみじん切りタマネギのソテーとか、数種類のキノコとか、そういうのが入っている。らしい。
「すごい……お洒落なカフェとかで出てくるカレーだ……!」
「お洒落なカフェとか、お前行ったことあんの?」
「……ないです」
痛いところを突かれ、私はぶすっと唇を尖らせた。田舎から出て来たてほやほやの私には、お洒落なカフェなんてまだハードルが高い。「でも、雑誌でなら見たことありますよ!」と胸を張る私に、恭介さんは「お前、雑誌とか読むんだな」と小馬鹿にしたように笑った。この人、私のことなんだと思ってるんだろう。
むむむ、と再び眉間を寄せた私をフォローする気はないようで、彼は「そんなことより」と強引に話題をすり替えた。なんだか納得はいかないが、とりあえず彼の話に耳を傾ける。
「今日さ、お向かいの婆ちゃんが大量に野菜くれたんだよ」
「あ、そうなんですか? あの笑い方が独創的な……?」
「そうそう、あの婆ちゃん。
「へえ……」
ということはつまり、このカレーに入っているソテード・オニオンとやらはそのタマネギを使って作られているのだろうか。煮込まれすぎて、もはや姿形は一切残っていないわけだけど。
「あのお婆ちゃん、すごいですね。家庭菜園なんてやってるんだ」
「な、野菜育てられるってすげーよな。俺マジで無理なんだよ、植物とか野菜とか育てんの」
「私も苦手です……」
「だろうな、サボテンも枯らしそう」
きっぱりと言い切った彼の言葉がぐさっと心に刺さる。うう、悔しいけれど否定できない。
そんなことを考えていたら、彼は
「ちなみに、残りの野菜はこうした」
「……何ですか? これ」
「ピクルス」
彼は液体に付け込まれたアスパラとキュウリの入った瓶の蓋を開けた。すると、確かに酸味のある独特の香りがする。
「わあ、美味しそう!」
「カレーだからな。付け合わせに作った」
「すごい! お洒落!」
「カフェみたい?」
「カフェみたい!」
「ふっ、行ったことねーくせに」
彼は笑って、ピクルス液に漬け込まれたアスパラとキュウリを白い皿の上に丁寧に盛り付けて行く。「ほんとはパプリカも入れたかったけど、誰かさんがピーマン嫌いだからなあ」とこぼされた嫌味は聞こえないふりをして、私は綺麗に盛り付けられたそれを食卓へと運んだ。
「座っといていいよ、あとは持って行くから」
「で、でも、いつも作って貰ってるし、運ぶのぐらいは手伝います」
「いーって。俺のわがままで取り付けた約束なんだし。座って待っとくのがお前の役目」
私の申し出をひらりと華麗に
極め付けには食器だ。料理を乗せている食器にも、彼は強いこだわりがある。彼曰く、「料理の魅力を最大限に引き出すには食器の色が最重要なんだよ」という事らしいが……別にお皿の色が合ってなくても、味に差異はないのでは? と私は正直思ってしまう。口には絶対出せないけれど。
とにかく、彼はこだわりが強いのだ。だから二人が交わしたこの珍妙な“約束”も、期限が切れるその時まで、きっと破られることは絶対にないんだろう、と、思う。
「ん、俺特製のキーマカレー」
ことん、とテーブルの上に料理が置かれる。今日の食器は、縁に山吹色のラインをぐるりと引いたようなシンプルなデザインのお皿。その上に、白いご飯とキーマカレー、刻まれたトマトとオニオンのサラダに、クミンを和えたジャガイモが美しく盛り付けられていた。あまりに本格的なカフェっぽいカレーに、私は戦慄してしまう。
「ほ、本当にお洒落なカフェにあるやつみたいじゃないですか……」
「インスタントでよければスープも付けられますよ、お客様」
「け、結構です」
店員風の口調で
「いただきます」
「い、いただきます」
いつもの挨拶が交わされて、約束通り「晩ご飯」の時間が始まる。私はカトラリーケースの中からスプーンを取り出し、恐る恐るとお洒落なキーマカレーを口に運んだ。
当然、私の口からこぼれるのはこの一言。
「おいしい……!」
「辛いの平気?」
「あ、あんまり得意ではないですけど、この程度なら大丈夫です……! 美味しいです……! オシャカレーです……!」
「オシャカレー? なんだそりゃ」
はは、と笑う彼の猫みたいな目がふにゃりと細められる。普段は怖そうで機嫌が悪そうに見えるその顔は、笑うとなんだか少年みたいで少し可愛い。口が裂けても本人には言えないけれど。
「なんか、私の知ってるカレーじゃないみたい。初めて食べるカレーです」
「そ? ……まあ、スパイスとかめっちゃ入ってるしな。ガラムマサラ、コリアンダー、ローリエ、ターメリック、エルブドプロバンス……」
「え、える……? 何……?」
魔女の呪文みたいな単語を指折り数えて行く彼に小首を傾げるが、とにかく色々入っているということは理解した。私の知っているカレーの作り方なんて、野菜とお肉を油で炒めて、お水を入れて煮込んで、市販のカレールーを入れて……はい終わり。そこで完結している。
「カレーって、奥深いんですね」
「お、よく気付いたな。そうなんだよ。俺、カレーが食い物の中で一番好きかもしんね」
珍しく瞳を輝かせて、恭介さんはそう語る。それって食べる方が好きって意味なのかな、それとも作る方が好きって意味なのかな。なんだかどっちもって答えられそうだけれど。
とりあえず私は美味しいカレーをもう一口、口元に運びながらこくんと彼に頷いておいた。
「私も、恭介さんのカレー好きですよ」
「オシャカレー?」
「あ、バカにしてるでしょ……」
「さあー、どうだろうな」
くすくすと笑って、彼はまたカレーに口をつける。私はむすっと頬を膨らませながら、今度は白いお皿に盛られたピクルスを取り箸で掴み、カレーの上にぽとんと落とした。カレーのお供、といえば福神漬けだけれど。彼によって漬け込まれたキュウリとアスパラのピクルスは、そんな固定概念を覆すほどにキーマカレーとベストマッチしていて。
「あ、すごい合う!」
程よい酸味とスパイシーなカレーの組み合わせに瞳を輝かせれば、「だろ?」と得意げに恭介さんが微笑んだ。
「結構ランチの店では出てくるぜ。カレーとピクルス」
「へええ。私、お家でしかカレー食べないから知らなかったです」
「マジで? もったいねーな」
「……いいもん。福神漬けも好きだもん」
少し拗ねながらカレーをもりもりと食べ進める。キノコの歯ごたえと、とろとろナスの溶け具合が絶妙で、あっという間にカレーはお腹の中に収まってしまった。もちろん付け合わせのサラダやクミンポテトも最高にマッチしていて、これまたぺろりと即完食。
すっかり空っぽになってしまったお皿をじっと見つめていれば、恭介さんは小さく笑って立ち上がる。
「おかわりどれくらい?」
「ご飯は普通で、ちょ、ちょっと、ルー多めに……」
「はいはい。オシャカレー多めね」
「オシャカレーいじりはやめてくださいっ」
もう! と声を荒らげる私の訴えをへらへらと楽しそうに受け流して、彼は空になったお皿を取り上げるとキッチンの方へ歩いて行く。冷たい麦茶を喉に流し込み、アスパラのピクルスをぱくりと摘まみながら、私はカレーが蓄えられているであろうお腹をそっと撫でた。
だんだんお腹が満たされて行くこの感覚が、なんだかこそばゆい。こんな予定じゃなかったのに、と今更考えたところで、約束してしまったものはしょうがないんだけれど。
ぐるぐるぐる、と今しがた流し込まれたカレーの消化活動が始まったのか、胃の奥が小さく音を立てているのが分かる。人間の体って不思議だな、なんでお腹って空くんだろう。というかなんで私、誰かとご飯なんか食べてるんだろう。なんで誰かと食べるご飯って、こんなにおいしいんだろう。
(あの日、恭介さんに会ってなかったら、私……)
今頃、ひとりでどこにいたのかな。
そんなことを考えていたら、ことん、と目の前にカレーが置かれた。
「はい、ルー多め」
「……」
「……ん? 何? 多すぎた?」
じっと黙って見上げた私に、彼の訝しげな視線が向けられる。カレーはほかほかと湯気を立てて、やっぱり美味しそうな香りを放っていた。
「……いえ! 食べきれます!」
「マジ? 無理すんなよ?」
「はい!」
私はにこりと微笑んで、再びスプーンを握り締める。
──もしも、あの時、彼と出会っていなかったら。
そんな「もしも」の世界の私のことなんて、今更考えても仕方がない。とりあえず今は、彼の優しい“約束”に甘えるしかないんだから。
あと、5ヶ月は。
「んーっ、美味しい!」
「へえ、オシャカレーが?」
「もう! しつこいですっ!」
「ははっ」
〈本日の晩ご飯/キーマカレー〉
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