第6話 お花見に行こう
「花見行こうぜ」
西陽が眩しい午後6時30分。ピンポン、と珍しく鳴らされたインターホンに導かれるまま玄関の扉を開けると、その先で待ち構えていた彼が開口一番そんなことを言い放った。私はぽかん、と口を開き、「はなみ……?」とつい聞き返してしまう。
「そ、花見。今夜の飯は外だ。行くぞ」
「え、え、あのっ、急にそんなこと言われても……!」
「急にじゃねーよ」
突然の提案にわたわたと慌てる私だったが、目の前の彼が眉を顰めて不服げにこぼした事でぎくりと背筋に嫌な汗が流れた。彼はポケットの中からスマホを取り出し、メッセージアプリの画面が表示されたそれを私の目の前に突き付ける。
『今日、花見行くから。6時半ぐらいに迎えに行く。用意しといて』
「…………」
どうやら今日の昼頃に送信されていたらしいその文章は、いまだ「既読」の表示が付かず未読のまま。私はだらだらと冷たい汗が背筋に流れて行くのを感じながら視線を逸らした。
「……すみません……」
「いや、これ何回目だよ。連絡つかないのマジで困るんだけど」
「う……そ、その、スマホの電源、いつも切ってるので……」
どぎまぎとぎこちなく微笑みながら言い訳を述べてみるが、彼の視線はじとりと訝しげにこちらを見下ろしていて。ううう、と私は気まずさからつい身を縮こめてしまう。
そんな私の様子に恭介さんは小さく溜息を吐き出し、突き付けていたスマホをポケットの中に戻した。
「……わかったわかった。別に怒ってねーから、さっさと準備して来い。スウェットのまんまじゃ行けねーだろ」
「は、はい……少々お待ちください……」
私はどぎまぎと視線を泳がせたまま、恐る恐ると返事を返して静かに玄関の扉を閉める。静まり返った部屋の中、私は慌ただしく外行きの準備を始めたのであった。
* * *
そんなやり取りから数十分後。着替えと化粧を済ませ、慌ただしく外へ出て来た私を出迎えたのは短くなったセブンスターの煙草を吸っている彼の驚いたような表情だった。
「……へえー、珍し。化粧とか出来たんだな」
「で、出来ますよぅ……」
ファンデーションと眉マスカラと、色付きのリップを塗っただけだけど……。
物珍しげにまじまじと凝視して来る恭介さんの視線に、つい顔が熱くなって私は俯く。「あ、あんまり見ないで……」と消え去りそうな声で吐きこぼせば、面白がって更にジロジロと凝視された。本当に意地が悪い……。
「ふーん、いいじゃん。うっすらメイクするだけでも印象って変わるな」
「……そ、そうですか? 変じゃない……?」
「うん。可愛い可愛い」
「か……!?」
可愛い、という慣れない台詞に私はぴしりと固まってしまった。いや待て私、今のはどう考えてもただのお世辞よ、挨拶みたいなものよ! と自分に言い聞かせるが、ふつふつと迫り上がって来た熱は一気に頬を火照らせるばかりで。
「か、からかわないでください……」
おそらく真っ赤に染まっているであろう頬を隠すように両手で口元を覆って俯けば、その場に一瞬の沈黙が流れた。あ、やばい引かれたかも、と私は焦燥し、「外見を褒められる」ということへの耐性が無さすぎる自分を呪う。
ああもう、何やってるのよ絵里子! もう18歳も終わろうとしてるのに、こんなことで恥ずかしがって情けない!
そう考えていると、続く沈黙を打ち破るように彼の口が開かれた。
「……あ、何? チークも塗ったの? ちょっと塗りすぎじゃね、それ」
「……う、え……」
「ぶっは、間抜け面」
頬を真っ赤に染めたまま顔を上げれば、普段と何ら変わりのない彼がへらりとその場で微笑んでいた。真っ赤に染まる頬を
「ち、チークは塗ってません! すぐ赤くなる体質なんです!」
「はいはい。行くぞハナコ」
「エリコだってばー!」
文句をこぼす私を華麗にスルーして、恭介さんは軽快に階段を降りて行った。ぷっくりと頬を膨らませたまま私はその背中を追い掛け、気怠げに歩く彼の隣に並ぶ。
「……ところで、お花見ってどこまで行くんですか?」
「すぐそこの河川敷。ライトアップしてるんだよ、この時期」
「河川敷なんかありましたっけ」
「あるよ。“テトラ”とは方向が逆だから、お前まだ来た事ねーのかもな」
恭介さんはそう言いながら、開いていたパーカーのファスナーを上に引き上げて首元を隠す。4月も中旬とは言え、今日の夜風は少し冷たい。私は少し厚めのカーディガンを羽織って出て来たからまだマシだけれど、彼の格好は見るからに寒そうだ。
ちなみに、彼の言う「テトラ」とは、私のアルバイト先である居酒屋の名前だったりする。オーナーの名前が「
寒そうに身を縮こめている彼の言う通り、この道はテトラへ続く道とは逆方向。周辺の景色にも見覚えは無かった。
「……確かに、こっちの道は初めてかもです」
「そうだろ? ……でも、こっちの道はあんまり一人で行くなよ。川沿いにヤンキーが溜まってたり、酔っ払いが転がってたりするから」
「ひえ……」
私は表情を強張らせ、ぎゅっとトレーナーの裾を握り締める。ヤンキーとか酔っ払いとか、そういう類の人達は少し苦手だ。……ヤンキーっぽい見た目のお隣さんと毎日一緒に晩ご飯を食べて、居酒屋でバイトをしている私が言うのも変な話だけれども。
そんなことを考えている間にお日様は山に隠れてしまったのか、周囲の景色が薄暗くなる。まばらに点在する街灯が少しずつ光を灯し始めたのを確認した頃、目の前にひらりと桃色の花びらが舞った。
「……あ、桜……」
私が呟いた直後、不意に彼がその足を止める。そのまま苦い表情で黙りこくってしまった彼の視線の先には、目的地である例の河川敷。
想像していたよりも随分と大きな川だ。枝垂れるように伸びた桜の木はライトアップされ、水面がキラキラと美しく輝いている。
──まあ、肝心の桜に至っては、完全に散っていたわけだが。
「……」
「……散ってますね」
「あー、くそ、やっぱ先週がピークだったか……。今年は暖かかったから、全国的に開花が早いってニュースで言ってたもんな」
ガシガシと後頭部を掻きながら、彼は苦々しく吐きこぼす。そうなんだ、今年って暖かかったんだ。その情報すらも、私はたった今初めて耳にしていた。
よくよく考えてみれば──私は桜どころか、今の世の中の情報を、ほとんど何も知らない。テレビもスマホも見ていないから、仕方ないのだけれど。
「……どうする?」
不意に横から言葉が掛けられ、私は顔を上げる。バツが悪そうに桜の枝葉を見つめている彼の背中には、黒いリュックが背負われていた。
(多分、レジャーシートとか……色々入れてきてくれたんだろうなあ……)
花見のために準備していたであろう彼の心境を思うと居た堪れなくなってしまい、私は出来うる限りの明るい声を返した。
「せ、せっかく来たんですし、お花見しましょうよ」
「……どう見ても花散ってんだけど?」
「す、少しは残ってますよ! ……多分」
「多分て」
呆れ顔の恭介さんに「絶対! 絶対大丈夫だから!」と負けじと食い下がってみれば、彼は暫く黙り込んだ。が、やがて「……まあいいか」と呟くと、再び私の前を歩き出す。勝った! と内心ガッツポーズを取りながら私もその横に並び、橋の上を歩き出せば──ふと、道路脇に溜まる桜の花弁が目に止まった。
カラカラに乾いて、すっかり茶色くなってしまった桜の花弁。寄せ固まったその山を、私はじっと見つめて口を噤む。
「……」
美しく咲き誇っている時は、綺麗、綺麗、と持て
そんな花びら達が、なんだか自分と重なって見えてしまって。
私はぴたりと足を止めた。
(……私もこんな風に、茶色くなって、カラカラに乾いて、見えてたのかな)
ごめん、と。
何の悪びれも無さそうに、その一言だけが放たれたあの時の光景が頭の中に蘇る。
私はその場にしゃがみ込み、乾いた桜の欠片を片手でそっと掬い上げた。
この花びら達はもう、誰の目にも留めてもらえない──。
「──ハナコ!」
「!」
ふと、耳に届いた鋭い声。ぎく、と思わず肩を揺らした直後、強く腕を引かれて私は反射的に顔を上げる。その視線の先でこちらを見下ろしていた彼は、焦ったような表情で私の目をじっと見つめていた。
まずい、とすぐに直感して、私は強引に笑顔を作る。
「え、えと……ど、どうしました?」
「……」
彼はカーディガン越しに私の腕を掴んで黙り込んだまま、じっとこちらを見つめていた。その瞳がやけに真剣みを帯びていて、逆にこちらの視線が泳いでしまう。
暫く黙って私の腕を捕まえていた恭介さんだったが、やがてゆるゆるとその手を離した。彼は「ごめん」と小さくこぼして、そっと私から目を逸らす。
「……決まりごと、今のはカーディガンしか触ってないから、セーフな」
「……」
「早く立てよ。置いてくぞ」
彼は早口で捲し立て、ぱっと踵を返すと再び歩き始めた。私は手の中からこぼれ落ちた花びら達に一瞬目を向け、その場に立ち上がる。
──決まりごと。
私たち二人の間には、毎日一緒に晩ご飯を食べるという『約束』以外に、『決まりごと』といういくつかのルールが存在する。
ご飯を食べるだけとは言え、年頃の男女が一つ屋根の下で同じ時間を過ごすわけだから、と恭介さんが考案したものだ。
決まりごとと言っても、大した内容ではない。
1、期限日まで「約束」は必ず守ること。
2、お互いの体に触れないこと。(やむを得ない場合は除く)
3、自分が答えたくないと思った質問には、答えないこと。
大きく分けてその3つが、私たち二人の「決まりごと」である。そのうちの“2”に該当する、「お互いの体に触れない」というルールが、先ほどのは『カーディガン越しだったからセーフ』だと彼は主張しているわけで。
「……別に、これくらいで咎めたりしないのに」
ぽつり、私はか細く呟いて彼の後を追いかけた。几帳面な彼は、こういうところでも細かく気にしてしまうらしい。絶対A型だろうなあ、とぼんやり思いながら、私は目の前の猫背がちな背中を見つめていた。
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