4月 - 残り5ヶ月

第2話 恭介さん


「ご馳走様ですー」


「ありがとうございましたっ」



 カランカラン、と軽やかな鈴の音が鼓膜を揺らす。私は今しがた出ていった二人連れのお客様に頭を下げ、人の居なくなった店内へときびすを返した。

 時計の針は長い方が11を、短い方も11を指し示している。つまり現在22時55分。稼働時間約7時間で、私の勤務は終わりを告げようとしている。



「お疲れ、絵里子えりこちゃん。それ後片付けバッシングしたら、今日はもう上がっていいよ」


「……あ、はい。ありがとうございます」



 にこりと笑ってカウンターの奥から顔を出すオーナーにぎこちなく微笑み、私の予想していた通りの言葉が投げ掛けられた。カウンターが7席、4人掛けテーブルが3つ。そんな小さな居酒屋が私のアルバイト先である。

 先ほど出て行った客が座っていたテーブルの上に残っているグラスと取り皿を手に取り、厨房へと入って行けば調理担当のふじくんがシンクの前で振り返った。



「あ、吉岡よしおかさん、いいよそれ置いといて。俺洗うからさ。もう上がりでしょ?」


「え……あ、ありがとう。じゃあここに置いておいていい?」


「うん。テーブルだけ拭いといて。そしたらもう上がって大丈夫だから」


「うん」



 同じバイト仲間である藤くんは人懐っこい笑みを浮かべ、大きな食洗機に収められた食器類を奥へと押し込んで洗浄のスイッチを押す。私は彼のお言葉に甘えて運んできたグラスの洗い物を任せ、布巾ダスターを手に取ると再びテーブルへと戻った。



「絵里子ちゃん、どう? そろそろ2週間ぐらい経つけど、もう慣れた?」



 不意に背後からオーナーに問いかけられ、私はテーブルにダスターを滑らせながら「はい」と微笑んだ。この店で働き始めて2週間。40代前半の物腰柔らかなオーナーと1歳年上の藤くんに優しく支えられ、初めての飲食業にも何とか慣れてきたところだ。

 オーナーは目尻を優しく緩ませて、使い込まれたフライパンをカウンター上部の定位置に戻しながら更に続ける。



「慣れてくれたなら良かった。最近よく笑うようになったから、僕も安心してるんだよ。入ってきた頃は表情も固いし、ぎこちなく笑ってばっかりだったからねえ。緊張してたんだねえ」


「……あはは……まあ、そうですかね……。笑顔がぎこちないのは、まだ治ってないんですけど、その……すみません」


「はは、いいんだよ、ゆっくり慣れて行けば。……あ、そうだ。絵里子ちゃんって、唐揚げ好き? さっきお客さんに貰ったから、今日のまかないは唐揚げ丼にしようかと思ってるんだけど」


「……あ、いや、私は……」



 ふと告げられたオーナーの提案に、私は視線を泳がせて言葉を濁らせた。すると彼はすぐに私の言いたいことを理解したのか、「ああ!」と手を打って苦笑を返す。



「ごめんごめん、夜はまかない要らないんだったね」


「あ……は、はい。その……家に、用意されてるので……」


「そっかそっか、すっかり忘れてたよ。じゃあお土産に持って帰りな、せっかくだし」


「え、いいんですか?」


「もちろん。しょうくーん! 絵里子ちゃんの分の唐揚げ、パックに包んであげてー!」



 オーナーが呼び掛けると、洗い物を片付けた藤くんが「はーい」と返事を返した。ありがとうございます、と頭を下げれば、オーナーは「いいからいいから」とやはり微笑む。

 私は手早くテーブルを拭き上げ、パタパタと小走りで厨房へと入って行く。すると丁度美味しそうな唐揚げを五つほどパックに詰めてくれた藤くんが、輪ゴムを通してビニール袋の中へと入れてくれている所だった。



「はい、どうぞ吉岡さん」


「あ、ありがとうございます」


「あ、ほらまた敬語になってる。俺には使わなくていいって言ったじゃん」


「……あ、ご、ごめん。そうだったね」



 藤くんはわざとらしく唇を尖らせていたが、その後すぐに笑顔になって「お疲れ様」と私に唐揚げの入った袋を手渡した。それを受け取り、私も「お疲れさまでした!」と頭を下げる。そしてそのまま、奥の部屋へと小走りで入って行った。

 数分で着替えを済ませ、もう一度二人に「お疲れさまです」と挨拶してから、裏口の扉を開けて店を出る。4月の風は生温く、朝を待って眠るタンポポの花を揺らしていた。


 この店から私の住むアパートまでは、徒歩で約10分程度。都会から少し離れた郊外だからなのか、街灯はまばらにしかなくて、人の気配もあまりない。薄手のパーカーに無地のリュックを背負い、片手に唐揚げの入ったビニール袋をぶら下げた私は、暗い夜道を早足で歩いて行く。



「──ハナコ?」



 ふと、背後から呼び掛けられて振り向いた。とは言っても、私の名前はだ。ハナコではない。


 この名前で私のことを呼ぶのは、ただ一人だけ。



「……あ……」


「何だよ、今帰り? 遅かったな」


「は、はい。今日のシフトは夕方からだったので……」


「ふーん」



 スーパーの買い物袋をぶら下げた“彼”は興味なさげに相槌を打つと、当然のように私の横に並んで歩き始める。向かう方向が同じなのだからおそらく至って自然な流れなのだろうけれど、男の人と二人きりで夜道を歩くのはなんだか慣れなくて、いささか緊張してしまったり。


 彼は私と同じアパートの住人で、お隣の部屋──203号室に住んでいる、恭介きょうすけさん。苗字は知らない。歳も知らないし、普段何をしているのかも知らない。多分大学生なんじゃないかなあと勝手に思っているけれど、勉強しているところは見たことないし、かと言って遊んでるところも見たことはない。


 背の高さは普通より少し高いぐらいで細身。怖そうな見た目で、耳にはピアスが光っていて、最初見た時はもしかしてヤンキーかも、と考えて震えたものだ。そんな見た目とは裏腹に、実は面倒見が良くてお料理が上手で、几帳面。今夜もこうして、私に手料理を振舞ってくれようとしている。



「俺もちょうどさっき帰ってきてさ。連絡したけど返事来ないから、もしかしたらハナコもまだバイトかも、って思ってたんだけど……やっぱ遅かったんだな」


「えっ、連絡してたんですか!?」


「うん。……何だ、まだ見てねーのかよ」



 ふ、と笑って彼はスマホを手に取ってメッセージアプリの画面を見せる。“午後6:03”と表示された時間に、「今夜遅くなる。たぶん10時ぐらい」とだけ送信されたそれは、いまだに未読のまま。サアッ、と血の気が引いて行くのが自分でも分かって、あわあわと唇を震わせながら恭介さんの顔を見上げる。



「……ご、ご、ごめんなさい……全然気付いてませんでした……」


「いや、別にいいし。この世の終わりみたいな顔してんじゃねーよ」


「で、でも……」


「つーか、そんなことより、それ何?」



 ふと、恭介さんの視線が私の手に握られているビニール袋へと移って、私は「あ……」と小さく呟きながらおずおずとそれを持ち上げた。



「か、唐揚げです。オーナーがお客様にもらったらしくて、お土産にって……」


「へー、いいじゃん。でも参ったな。俺、家に肉仕込んで来ちまった」


「あ……今日の晩ご飯ですか?」


「そう。……まあいいか、今夜は贅沢に肉々しいメニューで行こうぜ」



 ふ、と笑った彼の声に頷く。どうやら、今夜の晩御飯はお肉らしい。豚肉、鶏肉、牛肉、エトセトラ。料理上手な彼の事だから、馬肉とか羊肉とか、その辺りが食卓に並べられても不思議ではない。そんなことを考えていたら、ぐうぅ、と腹の虫が空腹を報せた。隣からはクスクスと笑い声。



「うるせー虫も鳴き始めた事だし、早く帰るか」


「……う」



 かあ、と火照る頬を押さえて、私は歩く速度の速まった彼の背中を追い掛ける。気を抜けばからっぽのお腹が再びぐうぐうとやかましく鳴きそうになるのを必死で耐えて、私と恭介さんは暗い夜道を並んで歩いて行った。




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