第41話 缶コーヒー〈side 恭介〉

 ──ガコンッ。


 自動販売機で購入した缶コーヒーが、音を立ててふたつ落ちてくる。“無糖”と記された缶を取り出した九龍は、その片方をこちらに投げ渡した。反射的にそれを受け取り、俺達はベンチの上に並んで腰掛ける。


 かしゅ、とプルタブを開け、互いに無言のまま嚥下えんげするブラックコーヒー。


 やがて、先に口を開いたのは九龍だった。



「お前さー、バカなの? 人殴ったら立派な犯罪なんですよ恭介くん。ガキの喧嘩じゃねーんだからさあ……まあ、殴りたくなる気持ちは分かるけど」



 そう言って遠くを見つめる九龍に、俺は何も答える事が出来ない。


 ──数分前、ハナコの元カレにキレて殴り掛かった俺を、九龍が止めた後。


 くだんの元カレは俺達を突き飛ばし、「んだよ、キッモ! 意味わかんねーよ!」と悪態をついて喫煙スペースから走り去って行った。


 胸中に言いようのない苛立ちを抱えたままその場に立ち尽くした俺だったが、九龍がその背を叩いてベンチへ座るよう促し、缶コーヒーを購入して俺に投げ渡した──というのが、今に至るまでの事の経緯いきさつである。


 九龍はコーヒーを喉に流し込み、わざとらしい口調で続けた。



「知ってますか~、恭介くん。相手に怪我させたら立派な傷害罪、警察沙汰、ついでに退学なんですよぉ? つまり人生お陀仏、お先真っ暗~ってわけ。分かってる?」


「……」


「そんな危機を救ってやった俺、マジヒーローじゃん? もっと感謝しよ? はい今すぐ平伏ひれふして~、『ありがとうございます九龍様、一生感謝して靴舐めます』って泣いて喜べクソ野郎」


「……お前、何で止めたんだよ」



 ぽつり。苦いコーヒーの香りを噛みながら問い掛ける。


 九龍は一瞬口を閉ざしたが、すぐに答えた。



「……別に。あんなクソみたいな奴に、お前の人生をドン底まで勝手に突き落とされんのが、なんか癪だっただけ」


「俺を恨んでんなら、別にいいだろ」


「良くねーよ、お前は俺のタイミングで苦しめてドン底に突き落とすの。恭介の人生転落のタイミングは俺が決める! 分かったか!」


「何だそれ……」



 よく分からないこだわりを振りかざす彼に、今度は俺が呆れてしまう。九龍はまた缶コーヒーに口をつけながら、「それに……」と続けた。



「あんな奴殴って警察沙汰になったら、ハナコがまたに行っちまうだろ」


「!」


「お前以外に、誰がアイツを守れんの? またアキの時みたいに、気付いてんのに目の前でアイツの事を手放すわけ? ……そんな事したら、また俺がお前の顔面ブン殴ってやるよ」



 それまでの軽い態度から一変、真剣な表情で言葉を紡いだ九龍に思わず息を呑む。


 次いで俺は視線を落とし、口を開いた。



「……お前、ハナコに、アキの事話した?」



 控えめに問いかければ、九龍はこくりと喉を鳴らしてコーヒーを嚥下する。



「さあ? どうだろね」


「話したんだな」


「さあ~」



 あくまでシラを切り通すつもりらしい九龍は、曖昧な返事を寄越すばかり。だが俺はおそらく話したのだろうと確信し、小さく嘆息した。



「……九龍」


「んー?」


「……お前、タイムカプセル覚えてる?」


「!」


「小6の時、俺と、お前と、アキの3人で、それぞれ“未来の自分”に宛てた手紙書いて……習字教室の裏に埋めたやつ」



 小さく告げ、九龍に顔を向ける。すると表情を強張らせた彼と目が合ったが──すぐに顔を逸らされた。



「なーに、それ。全然覚えてない」


「……嘘つくんじゃねえよ。アキが死んだ後、俺より先に掘り起こしただろお前。あのタイムカプセル」


「……」


「……俺も、掘り起こした。そしたら、お前の分の手紙だけ消えてたよ」



 逸らされたままの横顔を見つめ、俺は問い掛ける。



「……なんで、アキの手紙は残しておいたの。読んだんだろ、お前」



 九龍はその問いに答えず、黙って虚空を見つめていた。しかし程なくして、観念したかのように口を開く。



「……読んだよ。ずっと3人で一緒に居たのに、どこまでもアキの中にはお前しか居なくて、めちゃくちゃ腹立った」


「……」


「でも、そんな哀れな俺に気ィ使って身を引いたお前の方が、その何倍もムカついた」



 早口で吐き捨て、九龍は残っていた缶コーヒーを一気に呷った。対する俺はコーヒーに口をつけず、黙って耳を傾ける。



「何でこんなに一途に思い続けたアキの気持ちに、恭介は答えてやんなかったんだろうって。恭介もアキの事好きだった癖にって。めちゃくちゃ悔しかった」


「……」


「本当は破り捨てたいぐらいだったけど……お前の犯した罪の重さを思い知らせてやろうと思って、アキの手紙は残した。ただそんだけ」



 空になった缶コーヒーが、九龍の手の中でみしりと軋んだ。遠くを見つめる彼の目を一瞥し、俺は言葉を紡ぐ。



「……あの日、俺の誕生日……アキに告られた。ずっと好きだったって」


「……知ってるよ。それで断ったんだろ」


「そうだよ、断った。……でも俺は、お前に悪いと思って身を引いたわけじゃない」



 ぽつぽつと、少しずつあの日の真実を告げる。

 九龍の眉間には深い皺が刻まれたが、訝しげな彼に構わず、俺は続けた。



「……俺は、アキの事は、本当に友達だと思ってた。年頃の男女になっても、俺は友達としてアキが大事だったんだ。……結果的には、それがアキの気持ちをもてあそんだ事になっちまって……アイツを傷付けた」


「……」


「アキ、高校で孤立してたんだよ。俺達オトコと仲良くしてたせいで、女友達からの反感買ってさ。……アイツがどんどん食欲なくなって、ゼリーしか食わなくなって、死にたいって言い出したのを、俺はどうにか止めようと思ったんだ……」



 ──でも、止められなかった。むしろ俺が、最後の最後でアイツの心を壊してしまった。


 告白を断った後、哀しく笑ったアキの下手くそな笑い顔は、今でも鮮明に思い出せる。


 彼女が橋から身を投げたと聞いて、激昂して殴りかかって来た、九龍の泣き顔も。



『お前、アイツが死のうとしてるの気付いてて、何で救ってやらなかったんだよ!! 何でアキが死ななきゃならないんだ!! 何で、先に気付いたのが俺じゃなくて恭介なんだ……! お前じゃなくて、俺だったら……っ、アキを救えたのに……っ!!』



 あの頃、連日とてつもない大雨だったのを覚えている。


 増水した川に橋の上から飛び込んだアキは行方が分からなくなり、数日後、変わり果てた姿で戻ってきた。


 俺は泣き叫ぶ九龍の言葉に否定も肯定も出来ず、殴られて、泥にまみれて──そのまま、俺達の心には穴が空き、二人の仲はこじれたんだ。



「……あの日の事は、かなり後悔してる。お前に恨まれんのも当然だと思ってるし、一生許してくれないだろうって覚悟もしてる」


「……」


「でも、一つだけ言いたい。──俺がハナコと一緒に居るのは、アキを救えなかった事に対する、“罪滅ぼし”のためなんかじゃないんだ」



 コーヒーの缶を握り込み、俺はハッキリと告げる。九龍はぴくりと反応し、眉を顰めた。



「そりゃ、最初にハナコの事が気になったきっかけはアキと似てたからかもしれない。でも、今は違う。俺は、アイツをアキの代わりだなんて一切思ってない」


「……」


「ハナコに『恭ちゃん』って呼ばせてみた時、はっきり“違う”って思った。アキじゃないって。俺はハナコにアキを重ねてなんかいないって。……俺の事を『恭介さん』って呼ぶ、ハナコを──を、見てるんだって」



 缶コーヒーの飲み口を見つめたまま続けた俺に、九龍はハッ、と短く笑った。



「……何それ。お前、まさか本気でハナコに惚れてんの?」



 ぬるい夏風が二人の間を吹き抜け、俺は一瞬口を噤む。


 けれど、すぐにやんわりと口角を上げた。



「……うん、そうだよ」


「!」


「惚れてる。多分、だいぶ前から」



 あっさりと認めた俺を九龍が凝視する。だが、これ以上何を言われたところで──俺は今の言葉を訂正する事も、自身の感情を疑う事もしないのだろうと思った。


 約束を交わした、あの日。

 俺の空っぽだった心に熱を注ぎ、再び動かしたのは、紛れもなく“絵里子”だった。


 あの時からきっと、俺は少なからず彼女に惹かれていたんだと──今ならば分かる。



(案外、一目惚れに近かったのかな。……まあ、アイツには昨日、思いっきり拒否られたわけだけど……)



 昨晩の己の失態を思い返し、視界を狭めて遠くの青空を見つめた。山の向こうに見える入道雲は、白く輝いて、眩しい。



「……俺は惚れてるけど、多分、アイツはそうじゃない。俺は、恋愛対象として見られてなかった」


「……」


「昨日、思いっきり拒否られてさ……簡単に心折れたわ。ほら、俺って繊細だから」



 冗談めかした言葉を紡げば、サングラスの奥で九龍の瞳がじとりと細められる。どこか呆れた顔で、彼は口を開いた。



「うーわ、何それ。1回女に拒否られたぐらいでヘコんでんの? ショッボ、ウケる」


「……お前……」


「つーか、たった1回拒否られたからって何なんだよ。お前の好きな女はちゃんと生きてて、お前の隣に居るんだろうが。まだ、声が届くんだろうが……」



 噛み締めるように、九龍は呟く。俺が思わず彼へと顔を向けた瞬間、九龍はベンチから立ち上がった。



「傍にいるなら、何度だってぶち当たりゃいいだろ。当たって砕ける事も出来ずに終わった馬鹿な俺と同じになるなよ。そういうんじゃねえだろ、お前」


「……九龍」


「俺の知ってる恭介は、もっとかっけーよ。世界で一番、誰よりもかっけーのがお前なんだよ。……出会った時から、ずっとお前ばっかりかっこよくて……だから、世界一ムカつく」



 九龍は目も合わせずに告げ、空っぽの缶コーヒーをゴミ箱に捨てる。

 俺は些か驚きながらも、ややあって目を細め、「なあ、九龍」と再び呼びかけた。


 彼は黙って振り向き、サングラスの奥の瞳で俺を見据える。俺は息を吸い込み、喉元に迫り上がた言葉を紡いだ。



「──ごめんな、九龍」


「……」


「あの日……アキを守れなくて」



 口にした謝罪の言葉は、彼との仲がこじれて以来、初めて告げた言葉だったかもしれない。


 九龍は何も言わず、その場で俺をしばらく見つめていた。


 やがて彼は嘆息し、口を開く。



「……そう思うんだったら、早くハナコを助けてやれよ。責任持って、お前がアイツを変えろよ。アキと同じ結末にすんなよ」


「……うん」


「……まだ、死にたがってるよ、アイツ」



 俯き気味にこぼした九龍は、それだけを告げると片手を上げた。ひらりと手を振り、去っていく背中を黙って見送る。


 程なくして、俺もベンチから立ち上がった。



 ──まだ、死にたがってるよ、アイツ。



 たった今九龍から告げられた言葉が、脳内で何度も往復する。



(……そっか。まだ、変えられてねえのか……)



 そっと目を伏せ、密かに奥歯を軋ませた。



 ──数ヶ月前、ハナコと初めて出会った、あの日。


 ゴミ捨て場でゼリー飲料の残骸が詰められた彼女のゴミ袋を見た俺は、咄嗟にその背中を追いかけた。だが既にハナコは家の中に入ってしまった後で、声を掛ける機会を失い途方に暮れたのを覚えている。


 俺は肩を落とし、仕方なく自室へと戻った。

 しかしその瞬間、隣の部屋のベランダの扉が開く音がしたんだ。


 途端に焦燥感に駆られた俺は、まさかと嫌な予感を感じて迷わずベランダに飛び出した。


 仕切りの奥に身を乗り出し、隣のベランダを覗き込む。

 すると、涙を浮かべ、柵を乗り越えてそこから飛び降りようとしている彼女の姿が真っ先に視界に入り──俺は思わず手を伸ばし、細いその腕を捕まえて、叫んだ。



『──ここから飛んでも死ねねえぞ!! 怪我してただ痛いだけだ!!』



 あれは、3月。

 よく晴れた穏やかな春の日。


 あの春の日に、俺は──2階のベランダから身を投げようとして震えていたハナコの手を、必死に繋ぎ止めたんだ。


 そして多少強引に俺の部屋へと連れ込み、泣きじゃくる彼女と、あの“約束”を交わした。


 ──半年間、彼女の命を繋ぎ止めるための、約束を。



(……前より随分笑うようになったし、表情も豊かになった。色んな場所に連れて行って、うまいもん食わせて、笑わせて──それでも、まだ足りないのか……?)



 駐車している車に重い足取りで戻りながら、俺は手元の缶コーヒーを強く握る。


 半年あれば、死にたいなんて言わなくなると思っていた。

 半年あれば、アイツが思いとどまるための“未練”を作り出せる自信があった。


 だが、約束の期日までは、もうあと2ヶ月も残されていない。



(この約束の賞味期限が切れたら、アイツは──)



 ──また、どこか遠くへ行こうとしてしまうのだろうか。


 そう危ぶんだ、刹那。

 不意に、俺の服の裾がくいっと引かれる。



「!」


「……恭介さん」



 控えめに服の裾を引き、俺を呼び止めたのは──そわそわと視線を泳がせる、ハナコだった。


 何かを言いたげにする彼女の手の中には、九龍に貰ったのと同じ缶コーヒーが握られていて。



「あ、あの……、恭介さん、たくさん運転してくれてるから……差し入れに、コーヒー買ってみたんですけど……」


「……」


「……も、もう、同じの、買っちゃってたんですね……」



 肩を落とし、へらりと苦笑したハナコは缶コーヒーをそっと手の中に隠した。


 昨晩の一件以来、初めてまともに見た彼女の顔。その表情に、俺の胸の奥は言いようのない感情で埋め尽くされる。


 なあ、お前、まだ死にたいのか?


 俺の料理じゃ、お前の腹は満たせなかった?


 あの元カレのせい?


 それとも俺のせい?


 なあ、この約束が終わったら、お前──また、消えるつもりなのか?



 そんなの、俺は──



「……嫌だ……」


「……えっ?」



 ──ぐっ。


 刹那、握り取った華奢な手を引き、小さな体を強引に引き寄せる。


 いとも容易く倒れ込んできたハナコを片手で強く抱き留めれば、俺の腕の中で彼女が息を呑んだのが分かった。


 一瞬流れた沈黙を打ち破るように、俺は声を紡ぐ。



「……ごめん。昨日、怖がらせて……俺の事、嫌になったんなら、ほんとにごめん……」



 九龍から貰った飲みかけの缶コーヒーを片手に握ったまま、彼女を抱き締める手に力を篭めた。


 どこにも行かないで欲しい。


 俺の傍に居て欲しい。


 この約束の賞味期限が、いつか切れてしまっても。


 そんな本音はついぞ口に出来ぬまま、ただ強くハナコを抱き締める。

 彼女に触れる俺の手は、震えていないだろうか。そう懸念した頃、ふと、俺の背中にハナコの手が触れた。



「……私こそ、昨日……変な空気にしちゃって、ごめんなさい。今日も、変な態度取っちゃって、ごめんなさい」


「……」


「恭介さんの事、嫌になんてなってないです。大丈夫。……私、気にしてないよ」


「……うん」



 控えめに背中に回された腕が、きゅっと俺の服を掴む。優しい声が紡がれて、つい目頭が熱くなったが何とか睫毛の手前で堰き止めた。


 華奢な体躯も、短い髪も。

 俺の好みとは違うはずなのに、心底愛おしいと感じてしまう。


 冷たかった飲みかけの缶コーヒーは、夏の暑さに熱されて、もうすっかりぬるくなってしまった。舌の上には、まだコーヒーの苦味が残っている。


 どうかまだ、こじらせてしまっている俺のこの苦味が、彼女に伝わりませんように。


 彼女の命を、甘く優しい約束しがらみで、繋ぎ止めていられますように。



(……俺が、必ず、)



 ──“約束おまえ”を、守ってみせるから。



 そう誓った、7月、熱い夏。


 抱き締めた腕の中で、きみの笑顔に暗い影が差し込んでいた事に──俺は、気付く事が出来なかった。




 .


〈本日の差し入れ / 缶コーヒー〉

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