8月 - 残り1ヶ月

第42話 いと惜しさとずるいひと

 ──カタン。


 通い慣れたバックヤード内で、薄茶色のサロンを丁寧に折り畳む。それを棚の上に戻し、タイムカードを切った後私は、微笑ましげな表情でこちらを見る手塚さんオーナーにぺこりと会釈した。


 すると、彼は優しく破顔する。



「また、いつでもおいで、絵里子ちゃん。お酒は暫く飲めないだろうから、ランチにでも」


「……はい。ありがとうございます、手塚さん」


「まだ暑いから、熱中症とかに気をつけてね。吉岡さん」


「うん、藤くんもありがとう。浅葱さんにもよろしくお伝えください。……お疲れ様でした」



 ぺこり。二人に再度深々と頭を下げ、私はアルバイト先である居酒屋──テトラを後にした。


 店を出て、リンリンと鳴く虫の声に耳を傾けながら、ゆっくりと夜の帰路を歩む。


 季節は8月。日毎に暑さが厳しくなる昨今。

 私の日々は、まだ続いていた。


 もちろん恭介さんとの“約束”も相変わらず続いていて、おそらく今晩も家でおいしいご飯を作って待ってくれているのだろう……と、思う。


 変わった事と言えば、先月の合宿から帰ってきて以降、彼はやたらと凝ったメニューを食卓に並べるようになったという事ぐらいだろうか。先週なんて10品以上もテーブルに並べられてしまい、「そ、そんなにたくさん作らなくてもいいですよ……?」と釘をさしたぐらいだ。


 ご飯がたくさん食べれるのは勿論嬉しいが、食費もかかるだろうし、さすがに少し申し訳ない。私の勘違いかもしれないが、最近の彼は何かに焦っているようにも見える。


 二人の約束の期限が、残り1ヶ月まで迫っているせいだろうか。



 ──こつん。



 小さな石ころを蹴り飛ばし、結局一度も会った事のない橋田さん宅の前を横切って、アパートの敷地内へと足を踏み入れる。


 最初は数日間しか住む予定のなかったこのアパートだが、気が付けばもう5ヶ月以上も滞在してしまっていた。


 ざあ、と流れる穏やかな風が、滅茶苦茶でバラバラな私の髪の毛先を揺らす。その風に乗って階段下まで漂ってくるのは、いつもと同じ、美味しそうな晩ご飯の香り。



 ──今日の晩ご飯は何だろう?



 そんな事を考えながら階段を上がる機会も、あと何回あるのだろう。


 そう思案した時──ふと、私はコンビニでゴミ袋を買い忘れた事に気が付いた。



(……あ、しまった。明日、家を片付けようと思ってたのに)



 ため息混じりに肩を落とす。


 夜の風はそよそよと、また私の髪の毛先を揺らしていた。




 * * *




 いつも通りにシャワーを浴びた私はサンダルに足を通し、数ヶ月前と比べて随分と物が少なくなった部屋を後にする。


 あとは布団を捨てて、冷蔵庫も捨てて……そしたらもう、何もなくなってしまうなあ。


 洗濯機はどうしようか、などとぼんやりと考えながら、私は隣の部屋のインターホンを押した。程なくして開いた扉の向こうからは、今日もいい匂いがする。



「おかえり、ハナコ。飯出来てんぞ」


「……ただいま。恭介さん」



 努めて穏やかに笑えば、彼も優しく目を細めた。


 最近、また作り笑顔が上手になったと思う。半年前はもう二度と笑えないと思っていたのに、皮肉なものだなあ。でも、これでいいのだと思う。


 私が笑えば、恭介さんが安心する。


 恭介さんが安心すれば、私も心の荷が軽くなる。


 もうすぐ、私達の“約束”は終わる。



「バイトどうだった?」


「んー、いつも通りですよ」


「腹減ってる?」


「はい。ぺこぺこ」


「はらぺこ虫?」


「うん。虫」



 へらりと笑い、彼の問いの全てに頷く。

 恭介さんは一瞬言葉を詰まらせたけれど、すぐに「そっか」と優しく笑った。


 テーブルの上には、既にたくさんの料理が並んでいる。


 サラダ、ご飯、スープ、和え物……中でも目を引いたのは、大皿に乗せられた麻婆豆腐マーボーどうふだった。



「わあ、今日は麻婆豆腐ですか?」


「うん。一応辛さ控えめに作った」


「私、麻婆豆腐好きです。おいしそう」



 微笑み、私はいつものように椅子に腰掛ける。恭介さんも正面に座り、程なくして二人で声を揃えた。



「──いただきます」



 残り少ない約束の合図を口にして、小皿に麻婆豆腐を取り分ける。彼の言うように辛さが控えめに作られているらしい麻婆豆腐は、お店で出てくるようなそれよりも赤みが少ない。


 まずは、ひとくち。そのまま口に運ぶ。

 形まで綺麗な、ぷるぷると柔らかいお豆腐。コチュジャンやにんにく、しょうがの風味と挽き肉の旨みが混ざり合うそれを、山椒の香りと共に舌の上で味わった。ぴり、と些か辛味も感じたが、辛いのが苦手な私でも気にならない程度の控えめな刺激。


 うむ、これは白いご飯に乗せねば損じゃな! と花梨さんの長老キャラを脳内だけで真似ながら、私はほくほくの白ご飯の上に麻婆豆腐をとろりと回しかける。



「うわ、うまそうな事してる」


「まーぼー丼です」


「俺もしよ」



 笑顔で答えれば、恭介さんも微笑んで私と同じように麻婆豆腐をご飯の上に盛り付けた。けれど、そこはさすが恭介さん。私よりも綺麗に、見栄えよく盛り付けている。


 白いご飯と一緒に食べれば、ただでさえおいしい麻婆豆腐がもっと美味しい。二人で一緒に食べれば、もっともっと、美味しい。



「……やっぱり、恭介さんは天才だなあ」


「今日はお前のマーボー丼の判断が天才」


「ふふ、そうですか?」



 何気ない会話を繰り返す、こんな普段通りの時間が、今になって愛おしく感じる。そして今になって、惜しくも感じる。


 次第に満たされていく、からっぽのお腹。

 空腹感がおいしい味で埋められていく度に、私の心は罪悪感で膨らんでいく。


 頭の片隅では、綺麗な長い髪を揺らす過去の自分が泣いていた。一眼レフのカメラを抱き締めて、『話が違うよ……』と嘆きながら。



『死ぬのが、怖くなったの……?』



 問い掛ける涙声。私は柔らかな豆腐を嚥下し、違うよ、と目を細めた。


 そう、違う。私は死ぬのがわけじゃない。


 ──私は、死ぬのが怖かったのだ。


 だから、ここに越してきてすぐに死ぬ予定だったはずが、臆して迷っているうちにどんどん伸びて有耶無耶になった。


 けれど死にたい気持ちが変わる事はなく、でもやっぱり怖くて、脆い命を辛うじて繋ぐために摂取していたゼリー飲料の残骸ばかりがゴミ袋の中に蓄積していく。


 そうこうしているうちに恭介さんに出会って、“約束”を交わした。おいしいご飯の味を覚えて、ますます死ぬのが怖くなった。

 死にたかった気持ちなど、もう忘れてしまったのではないかと──そんな風にすら、一時期は思っていた。


 でも、合宿の時。白いセダンの中で九龍さんに問われたあの時に、そうではなかったのだと思い知る。



『──いっそ死んでみる? ひと思いに』



 車中で首に手を回され、そう問われた時。私は、心の底から安堵してしまったのだ。


 このまま黙っていれば、死なせて貰えるのかもしれない──そう考えると、抵抗など出来なくなった。


 私はまだ傲慢にも、自分は死ななければならないと思っている。

 死ぬ事で、やっと求められるのだと思っている。


 あの日、私の陽だまりが欠けてしまってから、ずっと。



「──ハナコ」



 ふと、ぼんやり物思いに耽っていた私の横から声がかけられて、ハッと我に返った。顔を上げれば、恭介さんが呆れ顔で私の口元にティッシュを押し付ける。



「むぐっ」


「口元。汚れてる」


「あ……じ、自分で……」


「いいよ、したげる。飯粒までついてんぞ、食い意地モンスター」



 からかいつつ口元を拭う恭介さんに、また私はへらりと笑った。すると彼はどこか切なげに目を細め、「はい、綺麗になった」と手を引っこめる。


 あ、もう離れちゃった……と、胸に満ちる寂しさ。おこがましいとは分かっていても、彼への気持ちはずっと変わらない。


 毎日、私に晩ご飯を作ってくれて。

 毎日、私に「お帰り」と言ってくれて。

 毎日、私との約束を守ろうとしてくれた。


 ──でも、それは『私のために』してくれていた事じゃなかった。


 そう分かってからも、あなたの事が、まだ愛しい。


 私はアキさんの代わりにはなれない。

 だけど私はずるい女だから、今も彼女に向けられているであろう彼からの甘い感情を、こうして黙って受け入れている。


 私はずるい。


 でも、ずるくても、最後ぐらいは許されるでしょ?


 許されるよね。


 ……許してね。



「……あの、恭介さん。お願いがあるんです」


「ん?」


「実は、さっき、私の部屋に虫が出て……」



 唐突に話を切り出せば、彼の表情が訝しげに歪んだ。眉を顰め、彼は口を開く。



「……は? 虫?」


「うん。だから、あっちの部屋で寝るの怖くて……」


「……え」


「それで、お願いなんですけど……」



 ──今晩、泊めてくれませんか?



 あなたは、きっと断らない。


 そう確信していながら、苦いと分かりきった甘露あまつゆを欲する私は、本当にずるいひと。




 .


〈本日の晩ご飯/麻婆豆腐〉

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