第43話 かなわない思い

 ──今晩、泊めてくれませんか。


 そんなずるい問い掛けをして、数秒。黙り込んでしまった彼だったが、程なくして「……別にいいよ」と予想にたがわぬ返事を告げた。


 おいしい麻婆豆腐を食べ終わり、食卓を片した後、普段通りであれば私はすぐに家へと戻る。


 しかし今日ばかりは、彼の寝室でちょこんと座椅子に腰掛け、自分の部屋には無いテレビの画面をじっと見つめていた。


 すると不意に、洗い物を済ませたらしい恭介さんが部屋を覗き込む。



「ハナコ、これ。歯ブラシ使っていいよ。新品」


「……あ……ありがとうございます」


「使い終わったら、歯ブラシ立ての空いてるとこにテキトーに立てといて。……また、そのうち使う事あるかもしれないし」



 彼はそう言い、目を逸らしながら首元を掻いた。


 ──それって、また泊まりに来ていいって事かな。


 私は切なく微笑み、洗面所へ向かうべく立ち上がる。



「……歯磨き粉も借りていいですか?」


「いいよ、好きに使って。俺、風呂入ってくる」


「はい、行ってらっしゃい。寝室で待ってますね」



 にこり。笑って告げれば、恭介さんは一瞬身を強張らせた。

 やがて彼は目を泳がせ、また首元を掻いて顔を逸らす。



「……いちいち、期待させる事言うなよ」


「え?」


「……何でもない」



 はあ、と嘆息した彼は背を向け、「……じゃあ、ベッドで待ってて」と一言残して脱衣所へ消えていった。


 それを見送り、私は頬を赤らめて俯きがちに洗面所へと向かう。


 歯磨き、念入りにした方がいいよね──そう考えながら洗面所へとおもむき、今しがた受け取ったばかりの歯ブラシに歯磨き粉をつけて口に咥えた。


 つい勢いで泊まらせて欲しいと言ってしまったが、この発言の意味が理解できないほど子供ではない。きちんと覚悟した上で、「泊まる」と宣言したつもりだ。


 経験は、航平一人だけ。

 だけど正直、あんなの思い出したくもない。


 でも、恭介さんが相手だと、触れて欲しいと思う。



(……お風呂、ちゃんと入ってきたけど、さっき麻婆豆腐たべちゃったから汗かいたかも……どうしよう、くさくないかな……)



 シャツの襟を広げ、そっと中を覗き込む。下着は可愛いものを選んだつもりだけれど、スタイルはいつも通りの幼児体型。


 ボリューム感に乏しい胸元を見つめ、肩を落としつつ歯を磨いた。



(……恭介さん、胸の大きい人が好きだったらどうしよう……がっかりされちゃうかも……)



 普段から彼とよく一緒にいるであろう花梨さんはすごく胸が大きかったし、元カノの舞奈さんもスタイルが良かった。二人とも美人だし。


 ……アキさんは、どうだったのかな。



(……あ、だめだ。アキさんの事考えると、もやもやしちゃう……)



 眉根を寄せ、蛇口を捻って水を出す。

 薄荷ハッカの味で満ちる口内をゆすぎ、使い終わった歯ブラシは彼の指示通り歯ブラシ立てに立て掛けた。


 赤と青、仲良く並ぶふたつの歯ブラシ。

 多分、ここで歯を磨く機会なんてもうないんだろうけど──。


 そう考えた後で切なさを誤魔化すように微笑み、私は再び寝室へと戻る。襖を開ければ、クーラーによって程よく冷やされた室内の空気が私を包んだ。


 すっかり通い慣れたこの家だが、彼の寝室に入る機会はそう多くない。私の部屋であればここに薄っぺらい布団が敷いてあるだけなのになあ、と考えつつ、ころんと床に横になってみた。


 カーペットの敷かれた畳の上。部屋に満ちた恭介さんの匂いを忘れないよう、目を閉じて刻み込む。


 柔軟剤と、煙草の匂い。


 私の好きになった人の匂い。



「……はあ」



 虚しさが満ちて、小さく息を吐きこぼした。閉じていた目をゆっくりと開く。


 ──と、その時。


 私の視界は、ベッドの下に置かれている黄色いを捉えた。



「……?」



 なんだろう、といぶかり、上体を起こしてそれに手を伸ばす。


 あ、エッチなやつだったらどうしよ……と一抹の不安がよぎるが、ベッド下から引きずり出したそれに記されていた文字が私の懸念を容易く手折った。



 ──タイムカプセル。



 薄汚れたクッキー缶。そこに子供のような字で記されていたのは、そんな言葉だった。



(……タイムカプセル……?)



 よく見れば、小さく日付も記されている。

 西暦は9年前のもので、横には『10年後に掘り起こす!』とも書かれていた。


 どうやら、これはどこかに埋めてあったものらしい。



(……でも、10年……まだ経ってないけど……)



 首を傾げ、クッキー缶を裏返す。

 そこに綴られていたのは、三人の名前。


『6年2組 出席番号1番 芦屋 九龍』

『6年1組 出席番号7番 椎谷 恭介』

『6年4組 出席番号9番 柴崎 明』


 それぞれの筆跡で確かに残る名前に、私はひゅっと息を呑んだ。



(恭介さん達の名前……? それに、この“柴崎 明”って……アキさん……?)



 そう理解した瞬間、私は合宿中に舞奈さんから告げられた言葉を思い出す。



『──恭ちゃんの部屋の、多分本棚のどこか。汚れた黄色いクッキー缶があるの。マジックペンで“タイムカプセル”って書いてあるやつ』


『その中に入ってる、読んでみるといいよ』



 ──タイムカプセル。


 場所は本棚ではなかったが、おそらくこれが舞奈さんの言っていた物に違いない。


 私は生唾を嚥下し、背後を確認した。恭介さんが風呂場から戻ってくる気配は、まだない。


 私は些か躊躇いながらも、閉め切られたクッキー缶の蓋に手をかける。そしてゆっくりと中を開けば、子ども向けのイラストが描かれた封筒が2枚、収められていた。


 その内の片方を手に取ると、『椎谷 恭介』と名前が明記されている。



(しいたに……、しいや……? どっちだろう)



 初めて彼の本名を知ったけれど、正しい読み方すらも分からない。きっと、アキさんは知っているのに。


 きゅ、と唇を噛み、中の便箋を取り出す。中を開けば、小学6年生にしては綺麗な字で、『10年後の自分へ』という書き出しの手紙が記されていた。



(恭介さんの、手紙……)



 息を凝らし、私はその文面を目で追う。



 ──10年後の自分へ。


 夢だったサッカー選手にはなりましたか。

 くりゅうと、アキとは、まだ仲良しですか。


 くりゅうはちょっと優しすぎて、アキはだいぶ泣き虫だから、オレが二人を守ってあげたいなといつも思っています。


 大人になったら、くりゅうとアキをつれて、スペインにサッカーを見に行きたい。あと、最近料理が好きなので、おいしい料理を作ってあげたりしたい。


 どうか、オレの大好きな二人を、大人になったオレが、ずっと守ってあげてください。ずっと仲良くしてください。


 恭介より──。



「……」



 何も言えずに黙り込み、眉間に深いシワを刻む。


 9年前、小学生の恭介さんが書いたであろう、未来の自分へ宛てた手紙──書いてある願いのほとんどが、叶えられていない手紙。


 私はそれをそっと折り畳み、封筒の中に戻した。


 そしてついに、もうひとつの可愛らしい封筒を手に取る。



『柴崎 明』



 女の子らしい字でその名が記された封筒を開き、便箋を手に取った。おそらくこちらにも、10年後の自分に宛てたメッセージが記されているのだろう。


 かさり、音を立てて手紙を開く。



『恭ちゃんへ』



 しかし、予想に反してそんな冒頭から始まったそれに、私は目を見開いた。



 ──恭ちゃんへ。


 10年後の自分に手紙を書くはずだったけど、どうしても言いたい事があったから、ここに書きます。


 私は、恭ちゃんが好きです。


 小学2年生の時、習字教室であなたが私に「アキ」って名前をくれたあの時から、ずっとあなたに恋をしています。


 きっと、10年たっても、私はあなたが好きだよ。絶対そうだと思う。


 だからね、10年後。

 この手紙を見た時に、返事をくれたら嬉しいです。


 恭ちゃん、大好き。

 私を見つけてくれて、本当にありがとう。


 アキより──。



「……」



 つきりと胸を痛めながら、更に視線を下に落とす。そこには、大人びた筆跡でたった一文、後から付け足したようにメッセージが記されていた。


 綺麗な字。

 涙の跡が滲んで、一部が少しボヤけた字。


 これは、おそらく──大人になった恭介さんが書いた、告白の返事で。




『──俺も、お前がずっと大事だよ』




 見なければ良かったと、心底後悔した。




「……っ、分かってたのに……」



 手紙を素早く折り畳み、封筒に戻して、タイムカプセルに蓋をする。そのままベッド下に押し込み、私は自身の顔を両手で覆った。


 ──分かってた。最初から分かってた。


 私なんかじゃ、彼とずっと共に過ごしていたアキさんに、思いの強さでかなうはずがないって事。


 恭介さんとアキさんが、今でもきっと思い合っているって事。


 叶わなかった二人の強い思いをまざまざと見せ付けられて、私の心に亀裂が走る。


 ぐにゃり、ひずんで、醜く形が崩れていく──。



「──ハナコ?」



 ふと、背後から彼の声が投げ掛けられた。どうやら風呂から帰ってきたらしいが、私はまだ顔を上げられない。



「どうした、そんなとこ座り込んで」


「……」


「……ハナコ? 体調悪い?」



 ぺたり、床に座り込んだまま、力無く俯く。


 だめだ、笑わなくちゃ。

 がんばらなくちゃ。


 自身にそう言い聞かせ、口角を上げる。



「……な、なんでもないです! 男の人のおうちにお泊まりするの、初めてで、ちょっと緊張しちゃって」


「……? ハナコ、お前……」


「あは……もうすぐ19歳なのに、だめですよね、こんなんじゃ……。私、今夜……ちゃんと、頑張るので……」


「おい、お前本当にどうした!? 何で──」



 ──何で、泣いてんの。


 焦ったように問われ、肩を強く掴まれる。振り向いて顔を上げた拍子に、目尻に溜まっていた大粒の涙が頬を滑り落ちた。


 目が合った恭介さんはしっとりと髪を濡らし、普段セットしている前髪を下ろしていて。ああ、この髪、初めて見た。だけどこうして知らない彼の一面を垣間見る度に、また胸が苦しくなる。


 ねえ、恭介さん。

 あなたの苗字、何て読むんですか?


 本当はサッカー選手になりたかったんですか?


 ……まだ、アキさんの事が、好きですか?


 聞きたい。でも、怖くて聞けない。


 ちゃんと笑ったつもりなのに、うまく笑えなくて。

 心配そうに私を見つめる瞳に映るのが、本当は私ではないのだと考えると心が痛くて。


 がらがら、音を立てて、何かが壊れる。



「……帰ります」


「……え?」


「私、もう帰ります……遅くまでごめんなさい。お邪魔しました……」



 立ち上がり、私は彼から距離を取った。しかしすぐに手首を捕まえられて引き留められる。



「は!? おい、待てよハナコ! お前マジで何なの!? 何考えてんだよ!」


「……」


「最近ずっとおかしいぞ、お前! 俺がからかっても、怒らずにへらへらして強引な作り笑顔ばっか浮かべて、何も言わねーし! 急に泣くし!」


「……」


「俺、なんかした!? 今日だって突然泊まるって言い出したかと思えば、いきなり帰るとか……お前ずっと何考えてんだよ! 言えよ、なんか思ってんなら!!」



 声を荒らげる彼は私に詰め寄り、壁際に追い込んで顔を近付ける。至近距離で悲痛に表情を歪める彼は、こつりと額を合わせて小さく声を発した。



「……心配なんだよ、最近のお前……急に、消えちまいそうで……」


「……」


「行くなよ……どこにも……」



 力無くこぼれた言葉が、私の耳の奥に入り込む。


 きっと、彼は私を失う事を恐れているのだろう。痛いほどに分かっている。だってそれは、アキさんを二度失う事と同じだから。


 私は今にも溢れ出しそうな嗚咽おえつを飲み込み、至近距離にある彼の顔を見つめた。私よりも大きな手が、涙で濡れた私の頬をなぞる。


 それは、おいしい料理を作る、魔法の手。


 ベランダから飛び降りようとした私の命を繋ぎ止めてくれた、ヒーローの手。



「……私……恭介さんの手が、好き……」


「……は……」


「いつも、お料理作ってくれて、危ない事しようとする私の事を引き止めてくれて……今も、涙を拭いてくれてる。……そんな優しい手が、好きです」



 頬に触れる手に自分の手を重ね、呟く。

 恭介さんは眉根を寄せ、暫く間を置いてぽつりと言葉を紡いだ。



「……手、だけ?」



 きゅ、と握られる手。

 いつかと同じ、控えめな問いかけ。


 私は目尻を緩め、滑り落ちた涙も無視して、柔く破顔した。



「──うん。手、だけ」



 苦くうそぶいて、同時に高くかかとを上げる。

 そのまま至近距離にあった恭介さんの唇をそっと掠め取れば、彼の肩が強張ったのが分かった。


 たった一瞬、表面だけ触れ合った唇が、小さなリップ音と共に離れる。



「……“決まり事”、破っちゃってごめんなさい」


「……」


「おやすみ。さよなら」



 硬直している恭介さんの緩やかな拘束を振り払い、私は彼に背を向けた。


 ──ぱたん。


 静かに玄関を閉めて、部屋を後にする。



 ──リン、リン、リン。



 静寂の中で囁く虫の音が、心地良いはずなのに、どうにもうるさい。

 夏の夜風は優しく吹き抜け、私の短い髪をさらさらと揺らした。


 空には相変わらずまばらな星が煌めいて、惨めな私を見下ろしている。



 愛なんて、何も告げなくていい。


 私の思いなんて、知られなくてもいい。


 どうせ、かなわないのだから。



 季節は8月。

 約束の賞味期限まで、残り1ヶ月。



「……ごめんなさい、恭介さん」



 ──どうやら私は、あなたとの“約束”を守れそうにありません。




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